沖縄の歴史と社会 

1.強い国、豊かな国、子供に誇れる国へ
 国際政治のニュースが多い中で、米中両国が通貨供給量の増加を図った。日銀も10兆円の円の追加供給をしたが、円相場の動きを見れば、折込済みだったというところだろうか。やはり日銀法の改正が必要かもしれない。自民党総裁に安倍さんが選ばれた。地方票を制した石破氏とは、経済政策や国家観と歴史観で大きな違いがあると思われた。強い国、豊かな国、子供に誇れる国を目指す安倍さんに期待したい。ただ何よりも、新しい国づくりの、そして政界再編の1つの軸が定まったことを国民の一人として喜びたい。多少経済に影響が出ても、1日も早い総選挙の実施を与党に迫るべきと考える。
 一足先に代表が再選された民主党は、離党の防止を目的として、党内人事、内閣改造をするという。党内事情で政治をやられてはたまらない。漁船体当たり事件と尖閣国有化の影響を読み間違えた人達がまだ内閣を運営している。
 朝日新聞毎日新聞の安倍さんへの個人攻撃が尋常ではない。大阪維新の会が国会議員7名を擁する政党となり日本維新の会となった。全国的には無名の議員を入れたこともあって、一時的には勢いは弱まるかもしれないが、軌道修正能力に長けた橋下氏の次の一手を期待したい。
 自分は年来の道州制論者だが、地方分権を推進する前に幾つか条件があると思う。少なくとも、国防・情報に関する軸ができること、道州議会に値する政治家を育成できること、難民・移民・外国人に対する考え方の軸ができることが前提である。
 中国外相の勝手な論理の演説に対する日本の国連代表部の抗弁権の行使の映像と音声が流れた。韓国通商外交相の発言、米国の忠告も報道されている。声高に主張することはなくとも、きちんとした歴史認識がなければ世界では生きていくのが難しいと認識させられた瞬間だった。国際社会が不安定になればなるほど、国内におけるリーダーシップが問われてくる。
2.沖縄と日本の防衛
 尖閣諸島の国による購入が中国を刺激したとの意見もあるが、既に中国側は尖閣諸島を国家の核心的利益と位置づけていたので、早晩、彼らが尖閣諸島を取りに来ることは宣言されていた。かなり危険な状況にあったので石原都知事が心配されて東京都の購入という話になったというのが自分の理解だ。さらにここ1−2年、沖縄全体の帰属の変更・独立まで中国外務省関係者や中国人民軍関係者が主張していることが気になる。2011年1月には「世界華人保釣連盟」が1000隻以上の漁船で尖閣諸島を包囲し占領するとしていた。また2月には中国外務省のOBが「中華民族琉球特別自治区援助委員会」を結成していることが政府系の新聞で確認されている。今後この動きは強まることはあっても弱くなることはない。
 英国のエコノミスト誌に指摘されるまでもなく、中国が日本を侵略し戦争をしたいという動機は幾つもあるだろう。大不況であり、貧富の差があり、支配階級の腐敗汚職に対する民衆の不満反発は強い。通常兵力の戦争シュミレーションで勝っていても、核兵器がない以上、日本の紛争エスカレーションの階段には制約がある。仮に一時的にせよ尖閣諸島が中国に占領されるとすれば、米国の世界に対する軍事ヘゲモニーは大きく傷つくだろう。軍事と金融が一体であるとすれば、尖閣諸島は、小さい島々ではあるが、米中戦争の焦点であり、米中通貨戦争の焦点となっていると考えるべきだろう。
 米国の強さと弱さ、中国の強さと弱さ、そして日本の強さと弱さが交錯しているのが尖閣諸島であり、沖縄である。次の内閣がいずれになるにせよ、日本においては、国内政治と国際政治の焦点となるのが沖縄である。日本を含む東アジアの地図を南北逆転して眺めると、日本が2つの孤で、中国の太平洋への出入り口をふさいでいるかのように見える。「沖縄をどう守るのか」を考える場合には、こうした向きから地図をみることが重要だ。沖縄本島はその一つの孤の中心にある。
 西に眼を向ければ、日本最西端の与那国島への自衛隊配備が大詰めにきている。政府の2012年度予算では沿岸監視部隊の配置及び移動警戒隊の展開のために必要な用地取得に10億円が計上されていた。用地の買収が済めば、自衛隊が配備される。与那国島では以前から、日が暮れる頃に中国の調査船が岸のすぐ近くまで近づいてきて、船体を肉眼で確認できるといわれるほど事態は切迫していた。島の防衛体制は、警察官2名拳銃2丁だという。
 沖縄本島から遠く離れた尖閣諸島防衛には、オスプレイが必要なのである。オスプレイの配備の目的の一つは尖閣諸島の防衛だと、中国のメディア自身が認めている。沖縄は、東西1000㎞、南北400㎞の広大な海域に点在する49ヶの有人島と111ヶほどの無人島からなっていることから考えれば、沖縄には機動力ある防衛力の配備が必要であり、自衛隊の空てい部隊やレンジャー部隊の移動手段にもオスプレイが必要ではないか。工学部出身の仲井眞知事は安全統計以上の何で説明しろというのだろう。
 日本の2つの孤を守るという観点から見ると、米軍と自衛隊の基地の面積を分母とすると、人口希薄な方の孤の中心に25%の基地をおいてもおかしくないのではないか。多くの府県は黙っているが、沖縄ほど国家資金を潤沢に投入されている県は他にはないのではないか。2012年2月に稲嶺前知事が琉球新報のインタビューにこう答えている。(以下要約)「世論調査では60%以上が辺野古反対だった。大田元知事の時も、仲井眞知事の時も変わらない。沖縄は苦渋の選択をしたが、鳩山発言で反対が80%以上となり県民の意識が変わった。どんな形でも沖縄側はイエスという状況ではない。嘉手納より南の返還はプラス。私の時代でも海兵隊の県外移転を要望している。この問題は55年体制にさかのぼる。日本国民が日本の防衛、日米同盟の在り方について議論をしてない。私たちはもう苦渋の選択はできない。国民、日本国としてどのように受け止めるべきか、どう対応すべきかをしっかり考えるべきだ。」
 前知事の言っていることに嘘はないのだと思う。しかしそれだけが真実ではないと思えてならない。尖閣諸島と沖縄をどう防衛するのかを、もっときちんと議論し準備をすべきではないか。沖縄の人たちは何を考えているのだろうか。どのような政治力学が働いているのかを理解しなければならない。辺野古の埋立て環境基準だけは何故厳しいのかというのが個人的にずっと疑問だった。滑走路を沖合いに突き出して、できるだけ、地元の土木業者に仕事を増やしたいという力学は推測がつく。ジュゴンの安全より普天間基地周辺の子供たちの安全を何故考えないのだろうか。本当は、基地が存続しその地代があがることを期待しているのではないか。反基地闘争に中国における反日運動と同じ匂いを感じるのは自分だけであろうか。沖縄のニュースが報じられるたびに気になった。沖縄の歴史の本を読みながら、そんなことを考えている。
3.琉球王国の始まりから琉球処分、第二次大戦まで (1609−1945年)
 沖縄の歴史は、源為朝(みなもと・ためとも1139−1170年頃)から始まる。為朝は、弓の名手で、鎮西八郎を称して九州で暴れた。保元の乱では、父の為義とともに崇徳上皇方で奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流された。しかしそこで伊豆諸島を事実上支配し追討を受けて自害したとされる。しかし、琉球王国の正史「中山世鑑」や「おもろさうし」、「鎮西琉球記」、「椿説弓張月」などでは、追討を逃れて現在の沖縄に渡り、その子が琉球王家の始祖舜天になった。
 最近の遺伝子の研究によれば、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。民俗学者伊波普猷(いは ふゆう、1876-1947年)は、琉球の古語や方言に、支那文化の影響が見られない七世紀以前の日本語が残っているため、支那文化流入以前に移住したと考えていた。そうではなくて、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したとの指摘もある。後者は鎮西八郎伝説とも符合するのが興味深い。
 近代における沖縄と日本本土との関係は秀吉が朝鮮出兵に際し、島津経由で参戦を求めたことに始まる。これを密かに明と通報することによって、1606年琉球は明から王としての冊封に引上げられたが、薩摩の使節を侮辱したため、1609年に薩摩の島津氏3000名に侵攻され首里城を開城させられた。琉球王国薩摩藩の従属国となり貢納を義務付けられた。その後も、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとり続けた。奄美諸島薩摩藩の直轄地に編入されたが、表面上は琉球王国の領土とされていた。
 琉球王国時代の民衆の生活はかなり悲惨だった。薩摩の支配が過酷だっただけではない。台風と干ばつが交互にやってきて稲作農業が定着せず、人口の9割が農民だったのに食糧不足が続き、絶えず一揆があった。そのため地割制が採用され、土地の私有を認めず、集落単位に課税し、八公二民で、全ての余剰を取り上げた。地割替え以外は各集落の往来は禁じられ分割統治された。沖縄本島では、耕作地は2−3年毎に、離島においては10年毎に交代させられ、創意工夫や改良は行われなかった。特に離島農民には人頭税を含めて3倍の重税が課されていた。農民は自生するソテツの実を主食とし、サトウキビを税として貢納した。江戸時代は、それから作る黒糖を大阪で売り、北海道の昆布を仕入れ、中国皇帝に朝貢すると、大きな利益があった。これを薩摩藩琉球王族、士族が分配する中から宮廷文化が生まれた。沖縄の社会を、あえて批判を恐れずに単純化すれば、古代の律令制と植民地経済が交じり合ったような経済社会だったのではないだろうか。今後の研究課題である。
 琉球士族の中には明の太祖洪武帝の時代から始まる朝貢貿易の実務と学問を仕切っていた中国系帰化人が那覇の久米村に集落を形成していた。この人たちを久米村人(くにんだんちゅ)というらしい。そこでは19世紀になっても中国語が話されていたという。現在も三千名とも九千名とも言われる沖縄県民が中国系を自認しており結束力が強く現在の沖縄社会でも大きな影響力があるようだ。良く沖縄では本土への反発と中国への親近感がセットになっているという。琉球王族が本土に移されたこと、久米村人が教育熱心だったことなどが、この人たちの影響力を生み出しているのだろう。ここ2代の稲嶺知事、仲井眞知事もその子孫である。
  (*)明の太祖洪武帝は日本へ倭寇の鎮圧を要請していた。当初は南朝懐良親王に、その後は北朝側の室町幕府足利義満日本国王冊封して倭寇の取締りを条件として勘合貿易を行った。勘合貿易も基本は朝貢貿易だったといわれている。
 1871年に全国的に廃藩置県を実施した明治政府は、1872年(明治5年)に琉球王国を廃して琉球藩を設置した。琉球国王尚泰琉球藩王となった。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係と通交を断絶、明治の年号使用、藩王自らに上京を再三迫ったが、琉球士族となっていた中国系帰化人「支那党」の反対があり、旧琉球王国はこれに従わなかった。1879年(明治12年)3月、大久保利通は右腕の松田道之を600名の警官・兵とともに派遣し、首里城廃藩置県を布達し沖縄県が設置された。高校ではこれを琉球処分と習う。しかし支那党の一部があくまでこれに抵抗して清国に支援を求め、清国が日本に抗議していたことはあまり知られていない。
 1880年3月、清朝の総理李鴻章は、世界一周の旅の途上にあった南北戦争で有名な米国の前大統領ユリシーズ・グラントを通じて琉球三分割案の仲介を申し入れてきたことが知られている。グラントは6月に長崎に来日し7月の後半に日光で日本政府にその話を取り次いだことが知られている。その後、清朝とやり取りがあったものの結局はまとまらず、日清戦争によって、沖縄の領有を最終的に清朝が認めることとなったことを、中国は現在「日清戦争で沖縄を奪った」と主張しているのである。
(1)宮古八重山諸島の清国への割譲 
(2)沖縄本島はこれまでどおり日支両属とする 
(3)奄美諸島は日本領とする。
(*)ユリシーズ・グラント大統領(1822年−1885年、大統領在職1869-1877年)1879年6月−8月に国賓として日本に滞在。米国大統領経験者で、訪日した最初の人物。芝離宮浜離宮明治天皇と面談し、外国からお金を借りることの危険性を説いたことで知られている。
 江戸時代においても沖縄の識字率は1割にしか達してなかった。9割の農民は字が読めなかったため、明治になって、新聞を発行しても知識が広がらなかった。長年の地割制の影響もあって、社会全体としての連帯も競争意識もなかった。1879年に明治政府派遣の知事による行政が始まっても、なかなか就学率の向上や開化政策が進まず、経済的にも豊かにはならなかった。地方政府の基礎となる農地解放と地租改正はほぼ同時に行われた。そしてそれを基づいて市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが施行された。概ね本土から10〜25年遅れた制度導入となった。政治的には、いつも白党(日本派)と黒党(独立派)と支那党の対立が続いていた上に、本土からの新たに移住してきたグループが加わった。
 沖縄は貧しかった。それは地割制によって原始的な資本の蓄積がなされず、産業が起きていなかったからである。1925年頃の沖縄は、食糧自給ができず、貿易は絶えず赤字、質入金利は全国で一番高く、山林は乱獲荒廃し労働賃金と農家の生活水準は全国平均の1/3だった。そのため共産主義思想が普及する素地があり、コミンテルンの活動も盛んだった。1930年(昭和5年)頃、沖縄振興について内外で真剣な議論が起きたという。北海道の土木部長から沖縄県知事に就任した井野次郎は、「沖縄県振興計画」の策定に尽力するが、戦争が本格化し果たせなかったという。内務省は1931年から農業技術者を各村に1人駐在させることによって、サツマイモなどの収量を4倍にしたという。
4.戦後の沖縄と将来像(1945−) 
 1945年10月には政治犯が釈放され共産党に指導された沖縄人連盟の会員は最盛時に7万人を占めたことが知られている。沖縄学の第一人者として知られる伊波普猷は、この会の会長となって、沖縄独立と地割制の復活を唱えた。
 敗戦のときの人口は本島で33万人でこれに外地からの引上げ者が16万人加わった。米軍軍政で特筆すべきことは、公衆衛生と医療の水準が上がり、戦前の平均寿命は47歳だったが、沖縄返還時点では87歳だった。マラリアハンセン病などの感染症が制圧された。医師と看護士は米軍によって育成された。
 1952年4月28日発効の日本国との平和条約で、沖縄に対する潜在的な日本の主権は認めながら、米軍の管理下に置いた。米国は琉球政府を創設して軍政下に置き、各地に米軍基地・施設を建設した。米兵による事故・事件が多発した。この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし活発な祖国復帰運動を行った。1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地になると駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、反米反戦運動が強まった。米軍関連の土木建築業と飲食業が盛んとなり、反米反戦運動と対立した。
 米軍軍政の元では沖縄県民の平均所得は本土の6割弱だったが、物価が3-5割安かった上に、きわめて安定していたという。米軍軍事物資の横流しでヤミ経済が繁栄したといわれる。昭和20年代に米軍から琉球政府に払い下げられたスクラップは日本本土に輸出された。琉球政府公務員の3-5倍の賃金水準で雇用された基地従業員はピーク時で41千人になった。1956年には那覇では空前のビル建設バブルとなったという。その前年の1955年には米国海兵隊の沖縄移駐に伴って42百万ドルの基地建設好況が始まっていた。沖縄県内では、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制接収もあったが、同時に米軍基地の誘致合戦も起きていた。キャンプシュワブ、キャンプ・フォスターはこうしてできた。
 そうした経済的繁栄の中で、1956年、那覇市長に沖縄人民党共産党)の瀬長亀次郎氏が当選した。人民党と沖縄教職員組合が瀬長氏を支援し、財界が非協力を宣言するという構図が生まれた。生産性の拡大よりもイデオロギー論争に明け暮れ、労働争議が頻発した。1958年には軍用地の土地問題が解決し57千人の地主に24百万ドルの地代が支払われた。しかしこの好景気の中で、反基地運動と本土復帰運動が活発化する。「復帰をすればもっと生活がよくなる」というのが合言葉だったという。沖縄の左翼活動は1966年に始まる中国の文化大革命に大きく影響を受けたという。復帰の前年の1971年(昭和46年)に沖縄教職員会が解散に追い込まれた。復帰運動をしながら、国旗掲揚、国歌斉唱運動を推進していた保守派は追放され、左派を中心とした組合が作られた。彼らは、左派の史観に基づいて、沖縄史を改竄し、琉球王国を極端に美化し、日本軍を極悪非道と決め付けた。
 日本の本土での復帰運動は、1953年に、沖縄戦での沖縄女子師範学校と第一高等女学校の生徒で編成された「ひめゆり看護部隊」の活躍が映画となり、全国で放映されたことが、沖縄返還運動の原点となった。佐藤栄作政権は1970年に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。左派は安保と同列の沖縄返還論に反対した。1970年12月には沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で交通事故を契機にコザ暴動が発生した。
 1969年の日米首脳会談でニクソン大統領は沖縄返還を約束したものの、それは米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還だった。そして琉球政府沖縄県となり日本へ復帰した。日本は協定にもとづき、3億2000万ドルを米国に支払った。これには琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産も含まれた。
 返還後の沖縄については、2010年5月に本ブログで「沖縄の将来」と題して論じたが、大きな見方は変わっていないので再掲する。1972年(昭和47年)5月15日沖縄は本土に復帰した。その時沖縄の人口96万人だった。それより15年前に本土に復帰した奄美大島では15年間に人口が6割減った。第二次大戦前、沖縄の人口は鳥取県より少なかったが、沖縄返還の際に、鳥取は人口56万人になっていた。産業別の就業可能数を積み上げても40万人となってしまうのではないかと心配された。そのため復帰に際し、「沖縄の人口を減らさないこと」というのが佐藤栄作総理の指示だったという。
 そして堺屋太一さんたちが観光開発に取り掛かる。大阪万国博開催準備で知り合ったアトランタ開発で有名な観光プロデューサー、アラン・フォーバスさんに相談する。「道路とか飛行場とかホテルは観光施設ではなく観光を支える施設。行きたいと思う魅力を作れ。魅力とは第一は歴史、第二は物語、第三は音楽と料理、第四は女性とギャンブル、第五は景色の良い所、第六は品揃えが良くて安価な商店街。このうち三つを揃えろ」と言われたという。([出所]「東大講義録 文明を解く」堺屋太一著03年講談社より要約抜粋)
 ちなみに現在の人口は140万人と、復帰時点から46万人人口が増えわずかであるが、米国ハワイ州の人口を超えた。日本においては2025年までは人口が減らない数少ない県とされている。観光客は本土復帰した72年には50万人に満たない水準だったが、2010年は545万人の観光客が予想されている。景気の低迷もあり昨年より減るという。
 沖縄は東京と同距離内にソウル、上海、台北、香港、マニラなどのアジアの主要都市が位置する地理的条件が観光地の条件として優れている。と同時にそれが軍事基地が集中する理由の一つともなっていることは否定できない。ワイキキ、マイアミ、中国海南島の三亜等、どういうわけか世界的な観光地は軍事基地と密接に結びついていることが多い。
 県内では、失業率を全国平均まで下げること、観光客を大きく増やすことが課題だと言われている。沖縄の将来は、沖縄の人たちが、未来に向かってどういうシナリオを描いていくかにありそうだ。学術都市として或は情報産業都市としての布石は既に打たれているように見える。それをそのまま育てることも重要だろう。
 その他に手はないかというと、大きくいうと2つの方向性があると思われる。一つは4月の半ばに超党派74名で国際観光産業振興議員連盟が発足したことで、日本でもカジノを公認しようという議員連盟が誕生した。運営がきちんと行われれば観光立国の起爆剤となりうると多くの人たちが考えている。その最初の有力候補として挙げられているのが沖縄、東京、北海道だという。大型の宿泊施設を持つ観光地ならば皆手を挙げたいはずで、全国の30都市はすぐ手を挙げるだろう。しかし最初の1ヶ所ならば沖縄になる可能性が高いのではないか。もう一つの考え方は、マイアミのように裕福なリタイアした人たちが集まるリゾートとしての未来である。そのためには医療施設スタッフの充実などがポイントなるだろう。
5.沖縄のこれから
 沖縄の現状を付け加えれば、「最低でも県外に」といった鳩山首相の公約破綻の後遺症をまだ克服できていないと言わざるをえない。普天間問題は未だ決着しないまま、新たな事態が次々起こり、米国、中国、日本の強さと弱さが交錯する運命の地域となっている。
 民主党政権は定見もなく、腫れ物に触るように沖縄に接している。それを良いことに沖縄県は、今年度の沖縄振興予算を前年度の2301億円から2937億円にした。本土の普通の府県から考えれば、別世界の出来事である。辺野古移設に対する地元の態度軟化を期待したものであることははっきりしているが、仲井眞知事の態度はいまだ軟化していない。むしろ豊富な補助金が反基地運動を推進しているのではないかとみる人もいる。はたして沖縄は子供たちに誇れる国になるだろうか。
 ふと、山中貞則さん(1921‐2004年)という鹿児島県出身の政治家(当選17回、国会在職48年)のことを思い出した。党人派だが、勘の良さでは田中角栄さんと双璧と呼ばれていた。税制、行財政、独禁法の専門家として何とも言えない存在感があった方だ。消費税の生みの親だった。彼は、佐藤内閣の閣僚として、沖縄返還協定の締結に尽力し、沖縄の本土復帰に際しては1972年に初代沖縄開発庁長官となられた方だ。
 復帰に際しての円・ドル交換の差額補填、復帰後の沖縄振興開発特別措置法の制定、三次にわたる沖縄振興開発計画の策定、県立武道館の建設、首里城の復元、金融、情報特区の指定など多くのことを実現し名誉県民1号となった。「電気も水もない村は効率優先の政治では救済されない。政治とは身を細らせながら地域を照らすロウソクだ」との信念の下、当時の48の有人離島をすべて廻り、島民と直に接し、電気もない、水もない離党の克服に尽力された。彼が今いたならば、何を考え、どう動くのだろうかということが気になりだした。竹富島には彼の銅像があるという。