朝鮮別荘主人と韓国の混乱

 かつて伊東にあった木造旅館の絵葉書の写真展があった。その中にカタナヤ旅館の絵葉書も何枚かあった。現在は目白にある飯田高遠堂という刀剣屋さんが経営していた旅館だった。

 その前身は「朝鮮別荘」と呼ばれていた。朝鮮別荘の主人は李完用(1856年7月17日 - 1926年2月12日)だった。李完用は、学部大臣、総理大臣を歴任し、伊籐博文公とともに、梨本宮家から嫁がれた方子妃殿下のご主人となった李垠殿下のご養育係を務められていた。晩年は、朝鮮貴族会の会長となった侯爵李完用である。
 伊東との縁は、李垠殿下の別荘が三島の楽寿園だったこと、暴漢に襲われた傷の治療に、日本の別府や修善寺、伊東を温泉療養にまわり、伊東が気に入ったからだった。翌年に別荘を建てたことが分かっている。
 学部大臣として保護条約にサインし、総理大臣として併合条約にサインしたことで、現在の韓国では、極悪人代表となっている。それだけではなく、2005年にはその子孫も、子孫であることだけを理由に、財産を没収された。

 しかし彼は元々、単なる親日派という分類に入るような人物ではなかった。科挙に合格し朝鮮李王朝の高級官僚となった彼は、日清戦争(1894年7月-95年3月)の前に、朝鮮が、珍しく宗主国「清」に逆らって米国に開設した公使館に派遣されていた外交官だった。
 おそらく李王朝の外交顧問の米国人、元宣教師のホーレス・アレンと行動を共にしていたと思われる。李王朝は、米国を頼って清と日本から国を守ろうとした。
 日清戦争の戦闘では、海でも陸でも日本軍の圧倒的勝利だった。日本の勝利を背景に、朝鮮ではクーデタがおき、1894年7月、親日派金弘集内閣が成立し、内務(衙門)、外務、財政(度支)、軍務、学務、公務、農商務の8つ新行政機関がおかれ、年号も李朝創建の1392年を元年とする朝鮮歴となり、両班、中人、平民、奴婢の身分が廃止され、未亡人の再婚が許され、刑罰の連座制がなくなった。両班階級だけが持っていた租税及び兵役免除の特権も消えた。銀本位制に移行し貨幣価値が安定するとともに、国家財政と王室財政が分離された。軍国機務処(枢密院)は1か月で200以上の改革案を議決した。そして1895年1月には近代化のシンボルとなる朝鮮史上初の憲法「洪範十四条」が公布された。そのまま進めば、名実ともに朝鮮は近代化された独立国となるはずだった。
 しかしこうした改革は、あらゆるところで守旧派の抵抗にあった。その中心、閔氏一族の怒りはすごかった。ロシア、フランス、ドイツの三国干渉が成功すると、朝鮮では親露派がにわかに力を増した。
 列強同士の牽制によって独立維持を目指そうと帝政ロシアに接近したグループがあった。李完用は親露派のリーダーだった。当時のロシア公使ウェーベルは親露派に資金と武器を供給するとともに、才色兼備のロシア公使夫人は、国政を左右していた閔妃に取り入った。そして従来、親日派とされた朴泳孝まで親露派に取り込まれた。
 そこで日本の全権公使は井上馨から三浦悟楼に変わり、三浦公使は韓国皇帝の実父大院君が閔妃を嫌っているのに目を付け、1895年10月8日、大院君が宮中に乗り込むのを支援したのだった。大院君は、部下に閔妃を殺害し、自分の実子の光武帝を叱り再び親日派の内閣を作ったのだった。閔妃に直接手を出したのは日本人なのか韓国人なのか、はっきりしていない。
 翌年の1896年に今度は親露派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取し、李完用外務大臣となった。高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執り行なった。ところが今度はロシアはすぐにロシア将校によって韓国軍を訓練する計画を持ち出した。李完用はその意味と将来を考え要求を断ったが、内閣の多数が、ロシア公使の圧力に押され、数を減らしてロシア将校を受け入れることを認めたため、直ちに外相を辞し野に下った。
 ロシアについて付言すれば、1898年2月には露韓銀行を設立させたが、1898年3月、清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、遼東半島不凍港を手に入れると、韓国への関心を失った。1898年3月には韓国から全てのロシアの軍事・民事顧問が撤退し4月には露韓銀行も閉鎖された。ロシアにとっては、単独では採算に乗りにくいシベリア鉄道の出口が必要なのである。それは今も基本的に変わらない。
 時がたって、日露戦争の後、1905年、李完用保護国の条約に同意したのは、もう韓国には、日本以外に頼るところがないことを知っていたからだと思われる。米国は他の西洋諸国に先駆けて在ソウルの公使館を閉鎖しその業務を東京に移した。
 李完用は、おそらく日本語を理解していたと思われるが、日本語を使ったという記録はない。しかし、統合後、総督府で働いていた多くの日本人の部下から尊敬されていた。1926年に亡くなった時には、国葬ではないのに、ソウルで数キロの葬列が続いたという。1934年の小松緑の本には「逆境の英雄」と書かれている。
 韓国の混乱のニュースを見るたびに、上海で暗殺された金玉均と、この朝鮮別荘主人 李完用を思う。