盧溝橋事件という静かな戒め

1.毅然たる冷静さ
 自衛隊のヘリコプターや艦船への火器管制レーダーの照射事件を日本政府が公表してから、尖閣諸島の周辺から中国の公船がいなくなったという。国際的な評判を気にしたのだという。安倍政権の「毅然たる冷静さ」が際立っている。
 多くの人が忘れているが、中国の公船が初めて日本の領海に侵入したのは2011年8月24日だった。八重山教科書問題で、尖閣が日本の領土であることを詳述した育鵬社の公民教科書が選定された日の翌日だった。沖縄には、中国の連絡係がいるのかもしれない。沖縄の反基地闘争の幹部は何度も中国に渡航していることが知られているので、そうであっても不思議ではない。一年後の「9月11日」の尖閣諸島国有化を日中関係悪化の原因というのは、中国側の主張そのものだ。当事中国国内の関心を集めていた薄熙来事件から眼を逸らすための口実に使われたと考えられる。中国公船の活動、航空機の領空侵犯を見れば、中国がこの地域に兵力の集中している事実は誰が見ても明らかだ。もはや平時ではなく「準戦時」にはいったと見るべきなのだろう。
2.盧溝橋事件
 盧溝橋事件は育鵬社の教科書にこう書いてあるという。「日本は義和団事件のあと、条約により北京周辺に6000人の軍を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍は何者からに銃撃を加えられ、中国側との撃ち合いとなりました(盧溝橋事件)。これに対して日本政府は不拡大方針をとる一方で、兵力の増強を決定しました。その後も日本軍と国民政府軍との戦闘は終わらず、8月には日本軍将校殺害をきっかけに上海にも戦闘が拡大しました。ここにいたって日本政府は不拡大方針を撤回し、日本と中国は全面戦争に突入していきました(日中戦争)。日本軍は12月に首都・南京を占領しましたが、蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、徹底抗戦を続けたため、長期戦に突入しました。何度か和平交渉が行われましたが、日本軍も、米ソなどの援助を得ていた蒋介石も、強硬な姿勢を崩さず、和平にはいたりませんでした。中国戦線の長期化により、わが国の国力は次第に低下していきました」さすがにバランスの取れた著述である。
 ここから先が、歴史の事実として定式化されつつある部分だ。そして日本の保守派の間で、いま静かにささやかれているのが「盧溝橋事件を忘れるな」という戒めだ。「盧溝橋事件」発生の翌日1937年7月8日に、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けている。間違いなく共産党は盧溝橋事件が起きることを知っていた。共産党工作員が夜陰に乗じて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍が交戦するように仕向けたというのが歴史的事実だと考えることが正しそうだ。
 その証拠に、共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されているという。1949年(昭和24年)10月1日に中華人民共和国は成立した。その日、周恩来首相は「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」と言ったという。
 「盧溝橋事件」は、共産党による謀略だった。当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、「起死回生」を図るため、日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、「漁夫の利」を得て支那全土の支配権を得ようと考えた。狙いは的中し、日本はその後、8年間の長期にわたって、広大な支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。「盧溝橋事件」は、日本にとっては戦争に引きずり込まれる契機となった忘れられない事件である。日本はこの騙された弱さを強かに克服しなければならない。
 今回のレーザー照射事件とこの盧溝橋事件の類似が指摘されている。アルジェリア人質事件と中国の関係を指摘する人たちもいる。米国に指摘されるまでも無く、偶発的な事件に見せかけて戦争に持ち込むのも支那の伝統の一つである。現実を多面的に見ながら、大人の対応をしなければならない。