親日、反日の不条理 官房長官談話の罪

1.統治の問題ではない
 評論家の金美齢さんが「昭和史20の争点」(秦郁彦編、文春文庫、2006年)という本の中に、「台湾統治と朝鮮統治はどう違ったか」という興味深い論文を書かれている。多くの日本人は台湾、韓国両国の対日感情の差はなぜなのかという疑問を持っている。そしてそれは統治のあり方が違っていたのではないかと漠然と考えている。しかしそんなことはないと金さんは明快だ。客観的に見て、植民地としては朝鮮の方が台湾よりも一段と格の高い処遇を受けていたという。なんといっても梨本宮家の皇女を朝鮮李朝の皇太子に嫁がせていること、日韓併合後伯爵に封じられた朝鮮人がいること、台湾領有の方が15年も先なのに京城帝大創立は1924年台北帝大は1928年、志願兵制度は朝鮮が1937年で台湾は1941年、朝鮮人陸軍士官学校への入学を許可されていたが台湾人は許されていなかった。
 親日反日に分かれたのは、むしろそれぞれの民族がたどった歴史の違いや民族固有のメンタリティの違いに原因があるようだという。朝鮮には李朝500年の民族意識があったが、台湾にはなかった。戦後はどちらでも反日教育を行なわれたが、台湾人は2.28事件もあり、中国人が教える歴史は信じなかったし、李登輝総統以降は自由な民心が発露される社会を目指してきたこと、むしろ日本の外務省やマスコミの行動は、台湾を中国に差し出すことで、親日派を憤慨させ戦前の日本の遺産を食いつぶしているという。「植民地統治の差が親日度決める」という仮説は否定された訳だが、その是非がいずれにせよ、我々はどのような統治が行われていたかについてほとんど知らない。
2.強圧支配か、温和な法治主義
 同じ本の中で、「創氏改名は強制だったのか」について呉善花さんが書いている。彼女にしても、日本に来てしばらくの間は韓国で教えられた「歴史的事実」に疑問を持つことは一切なかったという。韓国の歴史教育を振り返って「日本の統治は一貫して強圧支配だった」という「反日史観」に価値づけられていると断言する。そのため歴史的事実はその「強圧支配」という価値づけと矛盾することがないように調整される、あるいはその価値づけを強化するような教え方をするという。そのことは日本の歴史教育においても「左派の歴史観」に基づいて様々な事実が価値づけられてきたことと同じである。
 しかし日本の統治は、初期の武断統治を除けば、一貫して温和な法治主義に徹していたという。むしろ過酷な統治を行なったのは日本統治以前の李朝政権であり、戦後の金日成政権であり李承晩だったという。「創氏改名は強制ではなく朝鮮人側の要望でもあった」という渡部昇一氏の指摘におどろき、彼女自身が自分でそれをどのように調べどう実感したのかを本に書いたことが述べられている。
 改名の要望は主として満州に移住した朝鮮人から朝鮮総督府に出されたという。それは満州で中国人からの不当な扱いを受けることが多かったためだという。創氏改名は、35年間の植民地統治のうちの最後の5年間、昭和15年から20年に行われた。しかし実態は、創氏改名をした人たちも韓国名を捨てたわけではなく父系血縁組織の考え方を変えたわけでもない。
 事実としては、創氏改名は日本式の戸籍表記法の採用という形で昭和15年2月から実施された。当時の南次郎朝鮮総督は「日本式を強制してはならない」という訓令を3回にわたってだしている。希望者にはファミリーネームである「氏」を持たせるが、届け出のないものには「姓」がそのまま氏として記載され、戸籍には「姓及び本貫」という欄が新たに設けられた。日本陸軍の洪思翊(こうしよく)陸軍中将は希望しないで「洪」が氏名欄の「氏」として記載されたという。そうした未届けの人(非希望者)は全体の約2割ほどだったという。改名については裁判所の許可が必要であり50銭の印紙が必要だったため、当時の人口の1割が改名しただけだという。戦後に「強制された」という証言はあるものの、資料によって裏付けられてはいない。
3.イギリスにおけるアイルランド人のような扱い
 洪思翊陸軍中将といっても知らない人がほとんどだろう。中将は1889年に朝鮮の京畿道安城両班の家に生まれた。1909年に日本の中央幼年学校に国費留学し首席で卒業。陸軍士官学校に進学。1910年の日韓併合に衝撃を受けたが、今は実力を養成すべきと考え1914年に陸軍士官学校を卒業し、1923年には陸軍大学校を卒業した。日本統治時代に日本の陸軍大学校に入学した朝鮮人は4人だけで、他の3人は王族なので彼だけが平民だった。1944年3月比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月に陸軍中将になり、12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。終戦後は連合軍から俘虜収容所長時代の責任を問われ、マニラ軍事法廷で戦犯として死刑判決を受けて処刑された。洪は日本統治下における朝鮮人の立場を「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と息子に説明していた。また併合前の大韓帝国の高宗皇帝が下賜した大韓帝国軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。
4.軍隊と慰安婦
 慰安婦像の日本大使館前への設置を機に、日韓関係の悪化が表面化するものと考えられる。小中学生にはどう説明すべきか言葉に詰まるのが慰安婦問題である。軍隊に付随して娼婦の群れが存在するのは世界共通の現象であって日本軍だけのことではない。ベトナム戦争しかり、イラン・イラク戦争の時もそうだった。また第二次大戦前に、女性の「身売り」が行なわれていたのは朝鮮だけではなくて貧しい日本人の間にも広く存在した事実である。しかし国家機関によって「強制連行」が行われたという事実はない。秦郁彦先生の研究によれば、慰安婦の総数1万数千人で日本人が4割、現地人が3割、朝鮮人が2割、その他が1割という比率だという。概して平時の遊郭と同じ生活条件は保たれていたし、それなりの料金が支払われていた。日本政府は、それは国家機関による行為ではないので国家による賠償は拒否したが、民間資金による賠償には応ずることにして「アジア女性基金」という団体も設立された。しかし韓国内ではあくまで国家賠償を要求する運動があったことは知られている。おそらく像を立てたグループはその流れなのだろう。
 桜井よしこさんの「日本よ、「歴史力」を磨け」(2007年、文芸春秋社)を読むとこの間の事情が浮かび上がってくる。長年、各機関、多くの学者が調査してきたが日本軍が強制したことを示す事実は一つも発見されていないのである。国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている膨大な通達を調査してもないし、92−93年に日韓両政府が行った調査によっても見つかっていない。むしろ本人の意思に反して慰安婦にしてはならないと禁じた指示書は数多く出てくる。また朝鮮の新聞にも悪徳業者が処罰された記事が出てくる。インドネシアにいたオランダ人女性が意に反して売春を強要されたことはたしかにあった。それは当時の日本の軍司令部の知るところとなり、慰安所は閉鎖され、女性は解放され、関与した責任者の将校は日本軍によって処罰された。また戦後行なわれたオランダの軍事法廷でも死刑を含む判決が出た。それは不幸なことであったが、逆に軍としての強制はなかったことを証明している。
5.世界に冠たる判断の誤り
 それにもかかわらずこの問題が世界に広がっているのは、1993年、当時の宮沢内閣が辞職する日の前日、河野洋平官房長官が、閣議決定でもなく、国会決議でもなく、事実に反して、軍の関与と強制連行を全て認める官房長官談話を行ったからである。「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言がなされた。河野氏は談話発表の後の記者会見で、官邸担当の記者から「強制連行については公文書は見つからずそれで(韓国人女性らの)聞き取り調査をしたと理解していますが、客観的資料は見つからなかったのですか」と質問された。河野氏は「強制には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もあるのです。精神的な強制は官憲側の記録に残る者ではない」としたうえで「いずれにしても、ご本人の意思に反した事例が数多くあるのは、はっきりしておりますから」と答えている。つまり質問された客観的資料はなかったということである。河野氏は、2011年の秋の叙勲で桐花大綬章を受章しているが、その判断の誤りは後世の教訓として日本の教科書に載せるべきだと思われてならない。
6.日本に生まれればこそ
 先日テレビを見ていて驚いた。李明博大統領を「大阪生まれの親日派」だするコメントする人がいたのである。個人的に大統領閣下を存じ上げてはいないが、1964年の日韓基本条約締結の際、高麗大学全学連の会長代行として1万2千人の反対運動を主導し日韓会談を中止させ、国家内乱扇動罪で懲役3年・執行猶予5年の判決を受けた学生運動の闘士である。日本生まれは韓国ではハンデであり、その分、主張は過激だったし、今も基本は過激なのだろうと推測している。大統領選挙に当たっても、「南北統一の際には日本から100億ドル出させる」と発言する人がなぜ親日派なのかよくわからない。知日派ではあるがその前に韓国大統領なのである。
7.不条理を許さず
 不条理を許さず、事実を事実として真っ向から恐れずに主張し続けることで初めて、日本は世界の良識ある一員として認められる。リーダーとなる資格も真っ当な主張を展開して認められる。歴史力は国際社会をより公正なものにすることで、人間の幸福を創造していく力でもある、と桜井さんはいう。一寸しんどいけど、その通りだと思う。でも軍事費はもう少し増額してもらう方が良いかも知れない。