東ティモールへの質問状

 世の中で起きていることは、現在報じられ、目の前で起きている事実からだけでは説明がつかないこと、歴史や全体への把握力が問われることが多い。たとえば、日本では2-3ヶ月前から「東ティモールの子供たちに援助を」という国際機関のテレビ広告がよく流れる。広告に流れている子供の画像は愛くるしく、援助に反対するものではない。ただ個人的には「東ティモールか」という感じは否定できない。ビルマに対する見方が似ていたこともあって、高山正之さんの本に熟読するようになった。(「世界は腹黒い」高木書房、2005年)そのこともあって少し東ティモールに引っかかってしまう。
 東ティモール民主共和国は、オーストラリアのダーウィン北西600キロにあるスンダ列島の東部にあるティモール島の東側を中心にした人口74万人の国で、住民のほとんどがカソリック教徒のメラネシア人の国である。1999年に住民投票の結果インドネシアから独立することが決まったが、インドネシア派と独立派の内乱が続き、国連のPKOが派遣されて、2002年に独立した国である。メラネシア人は、この辺の島々にすんでいる人を指すので、周りの島々と似たような人が住んでいることを意味するにすぎない。
 元々、ティモール島の西側がオランダ植民地で、東側が1695年からポルトガル植民地だった。その前は他の島々と同じくイスラム圏だった。異端審問もあり、キリスト教が強制され、一方的な通婚もあった。太平洋戦争の時に、オランダ軍とオーストラリア軍が保護占領し、その後日本軍が邦人救出のために一時的に占領したことがある。
 オランダのインドネシア植民地占領のための印蘭攻略作戦は1941年12月20日にフィリピンのミンダナオ島のダバオから始まる。ボルネオ島、セレベス島ときて1942年の1月31日にモルッカ諸島の中心地アンボン島、2月14日にスマトラ島パレンバン、2月19日バリ島、2月20日ティモール島に落下傘部隊が降下し蘭印軍2000人と激戦をはじめ、21日には東側(現在の東ティモール)に入ったという。3月1日ジャワに上陸し、9日にはオランダ軍が降伏した。ジャワ島が短期間でオランダ軍が降伏した背景にはインドネシア人が日本軍を解放軍とみなして協力したことが大きかったという。
 ティモール島との関係でいえば、ポルトガルは中立を宣言していたので、太平洋戦争前も日本との間で、横浜ー南洋諸島ーディリ(東ティモールの首都)間には定期航空路が開かれていた。当時のアジアのハブ空港バンコクだったが、欧米勢力に邪魔されて、日本は乗入れることも、欧米植民地の上を飛ぶこともできなかった。南洋諸島は、第一次大戦の後、日本の信託統治領だった。太平洋戦争の中、オランダ軍とオーストラリア軍が東ティモールに攻めてきたとき時、大日本航空支店は爆撃され、民間邦人が拘束されたという。ポルトガル植民地軍がこれを保護しなかったのは国際法違反だった。そのため日本軍は邦人救出もあって、東側に入って両軍を大きな抵抗もなく退けたという事実がある。中立なので、ポルトガル植民地軍1000名は日本軍とは交戦していない。ただ島の西側の西ティモールでオランダ軍が日本軍に追われて逃げ惑っている姿を見て、東ティモールの地元民が植民地軍を襲い始めたという事実はあったという。
 当時の日本軍の将校、下士官の証言によれば、島で暮らすうちに、ポルトガル植民地軍が地元民から襲われても仕方がないと考えるようになったという。数百年統治していながら、学校ひとつない。狭い島なのに、共通語もないし、まともな道路ひとつない。海岸の岩に海水を撒いておけば自然に塩ができるのに、植民地政府がこれを専売として住民に売りつけていたという。日本軍が占領した際に、ただの塩が食べられると地元民がすごく喜んだという。日本軍は地元民と一緒に土地を開墾し米を作り、道路や橋を建設したという。地元民には、鉄でできた鎌や鋸も与えられてなかった。
 1999年9月23日の朝日新聞は「日本は過去を反省しつつ独立東ティモールの安定、発展に関与していかなければならない。早稲田の○○教授によれば戦時中4−5万人の住民が日本軍に殺され・・・しかも戦後賠償が行われてない」と書いているそうだ。しかし大西洋戦争の記録にそうした記述はない。高山正之さんによれば、そんな事実がないことは、現地の人も、インドネシア政府も認めているという。一流の新聞も、大学教授の言説もあまりあてにならないらしい。
 日本の敗戦によりポルトガルの支配が復活し、ポルトガル人とポルトガル人の混血の人たちが多数の住民を支配していた。1974年にポルトガルで政変が起こり、維持しきれなくなって植民地の放棄が決まった。昔は香料貿易の利益が本国を潤していたのだそうだ。東ティモールでも独立への動きが加速し、共産主義色の強いグループも有力だった。冷戦の時代でもあった。隣のインドネシアスハルト政権は米国の勧めもあってこれに介入し、1976年に東ティモールインドネシアの27番目の州として併合した。日本を含む西側の国はこれを承認した。そして官吏や教員などを派遣してインドネシア化を推進した。
 ポルトガル流の統治は、アンゴラモザンビークなどの植民地と同じで全く投資せず収奪するだけだったので、経済は相変わらず自給自足的な農業に依存していた。太平洋戦争が終わってから、この時点で30年たっているのである。インドネシア編入されると病院と学校などの社会資本の整備が緩やかに進んだ。そのため今でも30代40代50代の住民はインドネシア語が共通語になっているという。
 このインドネシア化という言葉には少し解説がいる。インドネシアは、大小1万以上の島々が赤道の両側5000キロにわたって弓状に連なる国だ。その島々の大部分がスンダ列島であり、ジャワ人45%、スンダ人14%、マドゥラ人7.5%以外にも数多くの民族と250の言語・方言をもち、人口は2億人を超える。
 注目すべきは公用語は人口の多いジャワ語ではなく、インドネシア語であることだ。元々、この地域の交易のための言語であったマレー語の1方言をインドネシア語として、オランダからの独立を求めた1928年の第二回インドネシア青年会議が、新しい国家の共通語と定めたのだった。国を統一するためにジャワ優先主義を退けたところに、この国の政治と歴史の特色があると思われる。だからインドネシア語を教えることは、インドネシアでは当たり前のことである。なおインドネシア語とともに英語とオランダ語が共通語として機能しているという。
 次に東ティモールが注目された時期は、沖合に石油資源が確認された時期だった。アンボン島や西イリアンにも石油と鉱物資源が確認された。いずれもインドネシア領だった。住民はメラネシア系でキリスト教徒が多いという共通点があった。東ティモールには、インドネシアの支配に納得していなかった植民地の旧支配階級であるポルトガル系の混血グループが現地に残っていた。独立運動のリーダーである現地のカトリック教会の司教と独立運動家に脚光があてられ、1996年にこの2人にノーベル平和賞が贈られた。この頃、欧米諸国では、東ティモールがうまくいったら次はアンボン島と西イリアンを合わせてメラネシア共和国を作ろうというアイデアが話されていたという。それに符合するように1999年と2002年にイスラム教徒とキリスト教徒がアンボン島で衝突している。
 1998年にインドネシアスハルト政権が崩壊すると、1999年住民投票が約束され、独立派が勝って独立が決まった。そのあと、インドネシア派と内戦がおこり、国連PKOが派遣され暫定統治が行われ、2002年に独立した。しかも独立後も経済は、日本を含む外国政府や国際機関などの支援と援助に依存している。経済の自立化はまだこれからであり、世界銀行では東ティモール向けの信託基金を設立しているという。南方のティモール海には海底油田があり、将来の経済発展の核として期待されている。
 東ティモールの問題が、日本で話題になったのは、1999年の夏に独立の是非を問う住民投票が終わってからだった。日本は国連軍にお金を出すのか、人を出すのかという議論から始まった。いつもそうだったのだ。独立問題の発端は、ポルトガルが植民地を投げ出してから、10年目の1986年のリスボンのEC理事会から始まったという。その会議で議長国ポルトガルが「インドネシアの下で、東ティモールの住民の自決が脅かされている」と切り出したという。彼らはティモールの海に海底油田があることを知っていた。かくてEC諸国は燃え、国連に働きかけ、ノルウェーノーベル平和賞を与え、一気に国際人道問題に仕立て上げられていったのである。
 そして1996年、米国のヘッジファンドインドネシアを窒息させた。IMF管理化におかれたインドネシアのハビビ政権は東ティモールの主権を事実上放棄するための島民投票を認めることとなり、独立は規定の事実となった。ポルトガルは自腹を切らずに、旧植民地への発言権を取り戻した。独立した東ティモール政府の要人はほとんどポルトガル系で、奥方の中には、オーストラリア人の方もいることはあまり報じられなかった。個人的な問題だからである。
 現在、東ティモールにある日本大使館は、在外公館として珍しく日本向けの広報用のホームページを丁寧に作り、日本にいるNGOの人たちも誠心誠意、東ティモールのために一生懸命やっていることは良く理解しているつもりだ。その努力は実に尊いと思う。
 ただ、石油もあって、独立10年にもなるのに、何故貧乏なのか。独立の前と後で、どう違ったのか。どの国が何時いくら出して、何を得たのか。政府の指導者の中に非ポルトガル系の人はどの位の比率でいるのかについて、質問する人と調べている人がこの国のどこかにいるのも悪くないと思う。今度の南スーダンPKOの構図と似ている部分もあり、尖閣諸島や沖縄の将来を考える上での教訓となる部分もある。欧米にも品が悪い人たちもいる。個人的にはノーベル平和賞も要注意である。