「ヨーコ物語のその後」と慰安婦問題再論

 米国における韓国系住民の反日宣伝が著しい。ニュージャージー州下院では「第2次世界大戦当時、日本軍に強制的に連行された慰安婦被害者20万人・・・」という決議案を可決したという。 対馬の盗まれた仏像は返されず、踊る集団が公園を占拠したかと思えば、韓国の地方市議会は、対馬は韓国の領土であり即時返還せよとの主張を始めた。
排外主義や差別主義者に組する気はさらさらないが、無法にもほどあると言わざるを得ない。
 韓国には、日本にある朝鮮半島渡来の文化財を盗んで売りさばく窃盗団があるという。きっかけは、民主党政権の「朝鮮王朝儀軌」の引渡しだという。「これがあだになり、韓国内の文化財返還運動に火を付けた」と日本大使館関係者は言っているようだ。
対馬の即時返還を議決した京畿道の議政府市は、ソウルの北にある在韓米軍と韓国軍の基地が集中する街だ。当然軍関係者が市議会の多数を占めていると推察される。自衛隊の人ははっきり言わないが、韓国軍の装備は、北と対峙するためのものというより、日本を意識した装備になっているという。
1.米国における韓国移民の増大
 米国国勢調査では、現在、韓国系アメリカ人は170万人だという。カリフォルニア州 45万人、ニューヨーク州 14万人、ニュージャージー州 9万人、バージニア州 7万人、テキサス州 7万人、ワシントン州 6万人、イリノイ州 6万人、ジョージア州 5万人、メリーランド州 5万人、ペンシルベニア州 4万人、ハワイ州 2万人である。移民の波は1980年代から爆発的に始まり現在も、年2万人が移民している。自営業者が多く米国商工会議所に韓人支部が設けられることもある。韓国移民の多い都市では韓国系のラジオ・テレビ局が設立され朝鮮語放送がある。
 1965年に移民法が改正され、米国はベトナム戦争に協力した韓国を同盟国として扱い、比較的大きな移民枠を設けた。その年の韓国系アメリカ人の人口は25千人だったが、1970年には5万人、1980年には35.7万人、1990年には70万人と増加した。この20年ほどで更に100万人増えたのである。
2.ベトナム戦争における韓国兵
 米軍の応援部隊として韓国軍は南ベトナム側で戦ったが、強盗、恐喝、殺人、強姦、泥棒、放火など、問題が多く、止めに入った南ベトナム軍との銃撃戦もあったという。WEB上に韓国の新聞を出典とする様々な情報があるが、個人的には二度と読みたくない記事が多く引用を控える。
 韓国がベトナム戦争に参戦した際に、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人は多くの混血児が生まれた。2004年9月の釜山日報は、その数を5千〜3万人と推定している。現時点では韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は行われていない。この話が出るたびに、日本軍兵士による犯罪行為を持ち出すことで、韓国軍兵士による犯罪行為を相対化し矮小化しようとするといて非難されているという。日本軍はそうした犯罪行為とは最も離れた軍隊だったといわれている。
3.一つの反応パターン
 これは李承晩以来の反日教育に基づく行動パターンといっても良いのではないか。韓国人売春婦の組織が摘発されると、しばらくして、事実とは無関係に慰安婦問題の非難決議が出る。オリンピックのサッカー試合の後で独島の主張の旗を選手が振ったのが問題になると、しばらくして旭日旗の排斥運動が起きる。
 日本は1945年から1952年までは米国の占領下にあり、その統治は植民地政策に準じたものだった。植民地統治においては、植民地の少数民族を極端に優遇して民族対立を煽るのが一般的である。占領期においてこれが日本にいた在日の人に適用された。その事実は、今まで明確な評価をされてこなかった。彼らのほとんどは希望して日本に渡来した、或いは、残った人々とその子孫に他ならない。そのことと昭和20年代に起きた様々な歴史的事件の事実を明らかにすべき時期に来ていると思えてならない。
4.ヨーコ物語のその後
 高山正之さんが書いた「白い人が仕掛けた黒い罠」(WAC、2011年)の8章は「奴隷のいた国、いない国 韓国」というテーマである。「終戦の際、引揚げるときに日本人は襲われた。その加害の主体は、ソ連人ではなく、朝鮮人だった。博多湾への引揚者の不法妊娠47人の加害者は、朝鮮人28人、ソ連人8人、シナ人6人、米人3、台湾1、比1だった。・・・やはりヨーコ物語は真実だった。」と書いている。
 ヨーコ物語に何が起こったのかも高山さんは詳細に調べていた。「この本はアメリカの全州の中学校で副読本として採用されていたが、2006年に在米韓国人が歴史の歪曲と騒ぎ出した。朝鮮人を残忍な民族のように偽って描いたというのだ。騒ぎは全土に広がり、遂に73歳(当時)だった筆者が記者会見に引きずり出され、怒号の中で吊るし上げられ謝罪を求められたと、ボストン・グローブ紙が伝えている。」そして2007年に副読本からはずされたのだった。
5.日本の朝鮮植民地統治
 日本の植民地統治は、初期の武断統治を除けば、一貫して温和な法治主義に徹していたという。むしろ過酷な統治を行なったのは日本統治以前の李朝政権であり、戦後の金日成政権であり李承晩だった。
 洪思翊陸軍中将は1889年に朝鮮の京畿道安城両班の家に生まれた。1909年に日本の中央幼年学校に国費留学し首席で卒業。陸軍士官学校に進学。1910年の日韓併合に衝撃を受けたが、今は実力を養成すべきと考え1914年に陸軍士官学校を卒業し、1923年には陸軍大学校を卒業した。日本統治時代に日本の陸軍大学校に入学した朝鮮人は4人だけで、他の3人は王族なので彼だけが平民だった。1944年3月比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月に陸軍中将になり、12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。終戦後は連合軍から俘虜収容所長時代の責任を問われ、マニラ軍事法廷で戦犯として死刑判決を受けて処刑された。
 洪は日本統治下における朝鮮人の立場を「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と息子に説明していた。また併合前の大韓帝国の高宗皇帝が下賜した大韓帝国軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。
6.慰安婦問題
 軍隊に付随して娼婦の群れが存在するのは世界共通の現象であって日本軍だけのことではない。ベトナム戦争しかり、イラン・イラク戦争の時もそうだった。また第二次大戦前に、女性の「身売り」が行なわれていたのは朝鮮だけではなくて貧しい日本人の間にも広く存在した事実でだった。
 しかし国家機関によって「強制連行」が行われたという事実はない。秦郁彦先生の研究によれば、慰安婦の総数1万数千人で日本人が4割、現地人が3割、朝鮮人が2割、その他が1割という比率だという。概して平時の遊郭と同じ生活条件は保たれていたし、それなりの料金が支払われていた。
 日本政府は、それは国家機関による行為ではないので国家による賠償は拒否したが、民間資金による賠償には応ずることにして「アジア女性基金」という団体も設立された。しかし韓国内ではあくまで国家賠償を要求する運動があったことは知られている。おそらく像を立てたグループはその流れなのだろう。
 桜井よしこさんの「日本よ、「歴史力」を磨け」(2007年、文芸春秋社)を読むとこの間の事情が浮かび上がってくる。長年、各機関、多くの学者が調査してきたが日本軍が強制したことを示す事実は一つも発見されていないのである。国立公文書館アジア歴史資料センターに保管されている膨大な通達を調査してもないし、92−93年に日韓両政府が行った調査によっても見つかっていない。むしろ本人の意思に反して慰安婦にしてはならないと禁じた指示書は数多く出てくる。また朝鮮の新聞にも悪徳業者が処罰された記事が出てくる。インドネシアにいたオランダ人女性が意に反して売春を強要されたことはたしかにあった。それは当時の日本の軍司令部の知るところとなり、慰安所は閉鎖され、女性は解放され、関与した責任者の将校は日本軍によって処罰された。また戦後行なわれたオランダの軍事法廷でも死刑を含む判決が出た。それは不幸なことであったが、逆に軍としての強制はなかったことを証明している。
7.河野談話の誤り
 それにもかかわらずこの問題が世界に広がっているのは、1993年、当時の宮沢内閣が辞職する日の前日、河野洋平官房長官が、閣議決定でもなく、国会決議でもなく、事実に反して、軍の関与と強制連行を全て認める官房長官談話を行ったからである。「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言がなされた。河野氏は談話発表の後の記者会見で、官邸担当の記者から「強制連行については公文書は見つからずそれで(韓国人女性らの)聞き取り調査をしたと理解しているが、客観的資料は見つからなかったのか」と質問された。河野氏は「強制には、物理的な強制もあるし、精神的な強制もあるのです。精神的な強制は官憲側の記録に残る者ではない」としたうえで「いずれにしても、ご本人の意思に反した事例が数多くあるのは、はっきりしておりますから」と答えている。つまり質問された客観的資料はなかったということである。