魚の歳時記  村長さんの片思い アワビ研究事始め 

 2009年12月のコペンハーゲンCOP15の国際会議では、経済成長と環境をどう両立させるかが論じられたことと思われます。ハワイ島のコナにある州立自然エネルギー研究所は海洋温度差発電の研究で30年程前から有名でした。冷たい海洋深層水と温かな海水の温度差を利用して電気を生み出す研究が行われていました。現在はその海洋深層水を利用して陸上でジャイアント・ケルプという生育の早い巨大昆布の栽培し、それを餌としてアワビの養殖事業が進められています。海洋深層水の低温性、ミネラルに富んでいること、雑菌の少ないといった利点を利用し、万が一、昆布の胞子が外海に流れ出ても、温度が高いため外来植物とはならず環境を乱さないという考え方も優れています。
 このアワビの養殖技術は、日本で開発されました。そしてその研究は1894年に静岡県伊東市で始まったとされています。「アワビを養殖して村を豊かにしたい」と考えたのは38歳の小室村(川奈・吉田地区の旧称)の福西四郎左衛門さんです。福西さんが農商務省と交渉して、27歳の農商務省の青年技師、岸上鎌吉さんを連れてきて、伊東の川奈の長柵で2年間アワビの研究をしているのです。岸上さんはアワビの人工授精を試み、餌料海藻の調査を行ったとの記録があります。現在は川奈ホテルの大島コースとなっている所の13番ホールの先に屏風のような岩があり、その内側に石で作られた天然の水槽が幾つか並んでいるところがあります。近くの8番ホールには竹林と小川の痕跡があり、そこに7坪の研究室があったといわれています。最終的にアワビの人工種苗にめどがついたのが70年後の1952年、量産技術の確立は1960年代であり、ようやく1975年から人工種苗の放流が始まりました。実に研究が始まってから80年後のことだったのです。今では世界中でアワビを養殖することが可能になりなりました。コストを別にすれば、山の中でもアワビが養殖できるのです。
 この福西さんと岸上さんとの出会いが、伊豆の水産業を更に大きく発展させた起爆剤となったのではないかというのが私の仮説です。岸上さんは翌95年に博士号をとり、1908年には東大水産学科の第一講座の初代教授となります。イワシ、サバ、タイなどの研究もすべて岸上先生に始まります。米国スミソニアン自然史博物館に写真が掲げられている唯一の日本人なのだそうです。
 岸上先生を連れてきた福西さんも調べれば調べるほど興味深い方です。伊東の街づくりに功績があった和田村(旧市街地の一部の旧称)の下田家の三兄弟の二番目として生まれ、幼くして福西家の養子となり、国学を勉強したそうです。32歳の時に上京して「言語取調所」の創立メンバーとなり雑誌「言語」を出版したとあります。源氏物語の研究で有名だった円地文子さんのお父上の上田萬年さんもその言語取調所の研究員だったとされているので、国語研究所のようなものだったのかもしれません。病気のために志半ばで郷里に帰ってきてからは、42歳から5年間、小室村の村長となり、川奈の船上げ場の建設、後に川奈ホテルゴルフ場となった松ヶ崎地域の開墾と海岸線の魚付き林の植樹に注力された方です。率先して発動機船を買い入れて遠洋漁業を奨励し、中央政府を口説いて伊豆七島式根島の港の建設をし、中央に出ては漁業法の制定、朝鮮との漁業交渉、そして内国勧業博覧会の審査委員となったとあります。この内国勧業博覧会が明治・大正期の日本にとって大きな役割を果たしたのだと考えられます。
 明治の時代の日本の地方にはこうした人物が何人もいたと思われます。街おこし村おこし、そして経済成長と環境の関係が論じられる度に、明治の時代の村長さん達の心意気を思い出します。