チベットとダライ・ラマ14世

 中国の金融当局は、旧正月に入る直前に大幅に預金準備率を引き揚げ、金融引き締めに転じたようだ。輸出先の国の景気がおかしくなっているのに輸出国が一国だけ好調を続ける理由が得心できなかったが昨年金融を大幅に緩和しバブルが生じていたようだ。バブルの弾け方にしばらく注意しなければならないが、これを契機に日本においても不況感が強まるのは避けられないと考える。

1.中国による報道管制と干渉
 チベットダライ・ラマ14世オバマ大統領の会談が今週予定されている。これに対し中国政府が猛反発している。なぜそんなに反発するのか釈然としなかった。ダライ・ラマ14世や台湾の李登輝さんは、そのお人柄から日本では(おそらく世界でも)人気があり尊敬されている。しかし不思議なことにテレビを中心とした日本の大手報道機関がチベット問題や台湾の問題の歴史を深く掘り下げて報道することはない。各社の中国支局とその活動が人質に取られているからだ。同様に現在米中の間で問題となっている中国当局によるグーグルへの報道干渉や米軍に対するサーバーテロの実態はもっと詳細に報道されてもよいのに、報道されることが少ない。中国当局の報復と嫌がらを怖がっている。しかし周辺各国の歴史から振り返ってみると中国の実態と事実が少し見えてくる。 
2.チベット 
 インドのインダス川ガンジス川、中国の長江、黄河といったアジアの巨大河川は、チベット高原をその水源としている。人々は大麦を主食とし、ヤクと羊を飼育していた。インドから仏教が伝来すると在来の宗教と結び付き4世紀にチベット仏教の国となった。本来のチベットの領土はかなり広く、現在の中国全土の1/4に相当する。チベット自治区青海省四川省雲南省甘粛省にまたがる広大な地域だ。ラサにあるポタラ宮殿は、17世紀にダライ・ラマ5世が建てた。ダライ・ラマ観音菩薩の化身としての最高位の僧侶であり、次に位置するパンチェン・ラマ阿弥陀仏の化身とされいる。チベットはこれらの高僧と側近によって統治されてきた。二人の高僧は輪廻転生の考え方に基づき、どちらかが亡くなると、その転生者となる子供を探し出し、もう一方がその子供を教育する責任を負うというやり方で最高指導者を決めてきた。

3.中国のチベット侵攻とインド侵攻 
 1949年北京で中華人民共和国が成立すると、毛沢東は、1950年に「人民解放軍チベットを開放する」と宣言し、10月4万名の人民解放軍が長江を渡りチベットを侵略した。青海省に滞在していたパンチェン・ラマ10世(当時13歳)と側近は、毛沢東チベット解放を要請し、これが大義名分となった。この年の6月に朝鮮戦争が始まっていたので国連はチベット問題を取り上げず、中国の国内問題として扱かった。15歳のダライ・ラマ毛沢東に51年5月「チベット平和解放に関する協定(17条協定)」を押しつけられチベットは併合された。チベットは地方政府として存続を認められたが、51年人口2万人のラサに、人民解放軍2万人が進駐した。53年7月に朝鮮戦争が終了すると、チベット共産主義化が本格的に進められた。
 現在の中国政府は「1720年に清がチベットに派兵し定期的に役人を派遣した」ことをもってチベットが中国の一部であることの根拠としている。しかしこのチベットに派遣された大臣はいわば清朝政権がチベットに送った外交官のような役割を果たしていたと考えられている。1903年にイギリスが侵攻した際にはチベットが独自の軍隊をもって戦ったことは事実上の独立国であることの証拠の一つだ。1912年清朝が滅びると、1913年2月ダライ・ラマ13世は独立を宣言し、モンゴルの承認を得たが、中国、ロシア、イギリス、フランスはこれを承認せず、自国の影響下に置こうとした。1914年7月、インドのシムラで中華民国チベット、イギリスの3国でシムラ条約を結びチベットに対する中国の宗主権が認めた。しかし中華民国袁世凱がこれを批准せず、チベットは宗主権を認めないことを宣言したので、国際法的にチベット主権国家となった。しかし国際社会の承認が得られなかったのも事実だった。
 共産主義化というのは僧院が保有していた広大な土地を人民に解放し、中国人の所有とすることだった。人民解放軍に対しチベット人のゲリラ闘争が行われたが、容赦のない弾圧と虐殺が行われた。1959年3月不穏な空気の中でダライ・ラマ14世は、彼を守ろうとする3万人の群衆と中国軍の衝突を避けるためインドに亡命した。それから1960年9月までに8万7千人のチベット人が虐殺された。また中国共産党は自然条件を無視して小麦の栽培を進めヤクの放牧地を制限したため農業生産力に支障が生じた。1953年に280万人いたチベットの人口は64年には250万人に減少した。この間、新生児や亡命した人間も入れれば、推定で80万人の人が殺されたとされている。
 ダラムサラの地にダライ・ラマを受け入れたインドに対しては、1962年8月「インドが中国の領土を不法に占領している」と主張して、中国人民軍が突如インドを攻撃し、自国の領土と主張する広大な土地を占領した。これは毛沢東大躍進政策の失敗から国民の目をそらす目的もあったとされている。現在チベット高原にはインドに向けた核ミサイルが多数設置されているようだ。

4.胡耀邦の自由化「寛容の数年間」と胡錦濤の弾圧  
 文化大革命が終わり訒小平復権し、政治の実験を握ると胡耀邦趙紫陽を抜擢し経済開放を進めた。胡耀邦総書記の時代になると弾圧ではなく自由化が進んだ。1980年6月胡耀邦チベットを訪問しチベットに対する仕打ちを知ると唖然とした。今までの政策を「もっとも愚鈍な植民地主義」と批判し自由化を進めた。チベット人の登用、行政機関でのチベット語の使用が認められた。しかし87年胡耀邦が保守派に批判され失脚した後、毎年チベットで暴動が起きることとなった。
 1989年パンチェン・ラマ13世が亡くなると大規模な暴動が発生した。現在の国家主席である胡錦濤チベット自治区共産党書記として戒厳令をひいてこれを弾圧した。天安門事件の3か月前だった。胡錦濤は、この弾圧ぶりが党中央に評価され出世コースにのった。その後、インドに住むダライ・ラマによってパンチェン・ラマ11世が捜されましたが、中国共産党によっても共産党員の両親をもつパンチェン・ラマ11世が捜され教育されている。いずれこのパンチェン・ラマ11世が次のダライ・ラマを養育する時、中国のチベット支配は完成するといわれている。
 現在、チベットにおけるチベット人の人口は650万人だが、既に中国人は750万人とされる。仮に自治が認められても漢人支配が続く可能性が高い。インドに亡命しているダライ・ラマ14世は、中国からの独立ではなく、チベットへの帰国と香港のような高度な自治政府の樹立を希望しているとされるが、何度か交渉してもはかばかしい進展はない状況が続いている。2006年7月北京からラサまでの直通の青蔵鉄道が開通した。これはチベットの経済発展に役立つとされるが、同時に弾圧のための軍隊を運ぶ列車でもある。

5.多民族国家としての中国と自国内の中国系住民
 清朝後の中華民国でとなえられたスローガンに「五族協和」というのがある。5族とは漢族、蒙族、満族、蔵族、回族の5つだ。漢民族モンゴル族満州族チベット族回族の5つだ。回族漢民族だがイスラム教に改宗した人たちを言う。漢民族は全人口の90%を占めるが、残りは4つではなく、55の少数民族に分かれ、5つの民族自治区が設定されている。面積的には中国全土の60%を占める。現在の一党支配のもとでは民族自治区とは言えず、半植民地の状態にある。そのことが依然として民族問題の火種となっている。昨年も新疆ウイグル自治区では暴動と虐殺があった。人権活動家以外の人たちからも非難を浴びているが、多くは報道されていない。
 2000年のデータでは、主な少数民族の人口は、チワン族 16百万人、満州族 11百万人、回族 10百万人、ミャオ族 9百万人、ウイグル族 8百万人、トウチャ族 8百万人、イ族 8百万人、モンゴル族 6百万人、チベット族 5百万人、ブイ族 3百万人となっている。
 そしてもう一つの「隠れた民族問題」がロシアを含む中国の周辺諸国で発生していると考えられる。それは自国に住みついた中国系の人達をどう扱っていくかという問題である。日本における外国人地方参政権の問題もその一つかもしれない。かつてフィリピンがスービックにあった米国基地を無くす決定をする際に、フィリピンの上院議員に対する中国系の人たちの働きかけが大きかったと言われている。そして米軍基地が無くなった時、領土問題において取り返しにくい既成事実が積み上げられた。こうした事実もあまり報道されることはない。