大河の流れ ビルマの新たな歩み  

  1.米国の関与と日本の援助
  2.イラワジの流れ
  3.ビルマの歴史 ビルマ独立義勇軍と戦後
1.米国の関与と日本の援助
 大正から昭和にかけて荒川が開削されるまでは、東京でもよく洪水の被害があったという。大阪も古地図をみると「河内」(川の内側)という地名がなるほど思える地形だった。田圃を作られ、川の流れの方向を変えて現在の大阪が造られた。そして田圃が埋め立てられて街が造成された。長い時間軸で考えてみると、日本の国土自体が、先人の智慧と努力の賜物に他ならない。いまアジアとアフリカの大河に大きな手が加えられていて、良い意味でも悪い意味でも人々の生活がそれによって大きく変わることが予想される。
 東北の復旧復興法は通ったが、瓦礫の処理を含めてまだ復興庁すらできていない。首相は増税と訪米しか考えておらず、何も指導力を発揮できていないように思われる。延命のために第4次補正予算をと言い出した。世界の状況をみれば、もっと大きな手を打つことが必要だ。
 マスコミの報道も目の前の話題を追いかけるのに忙しく、時にはもっと広く深く報じてほしいと感じることがある。米国のクリントン国務長官ミャンマーアウンサンスーチー女史を訪問した様子が報じたニュースもそう感じられた。大方のメディアは、ミャンマー民主化や人権問題、そして中国の影響力と米国の接近という線での報道が多かったように思う。それを否定するわけではないが、アウンサンスーチー女史の屋敷に国務長官の車が吸い込まれていった映像は新鮮だった。「六畳一間の自宅」で軟禁されていたわけではなかった。
 注目すべきは、8月に彼女のグループがイラワジ川の上流に作られているダムの建設建設に反対を表明しその運動が大きく盛り上がりつつあったことである。9月末にはミャンマーテイン・セイン大統領が、「2015年末までミッソンダムの建設を中断する」と発表したため、反対運動は一旦収まったものの、現実には、建設現場は未だに中国企業が管理しており、建設現場には作業員や機材が残り、測量やダム建設に必要な道路の工事は続けられている。
 ミャンマーの大統領は、10月に返す刀でインドを訪問して5億ドルの経済支援をとりつけ、中国からの圧力の支えとした。そして東アジアサミットでのオバマ大統領の表明があり、今回のミャンマー訪問となった。金額の多寡が問題ではないが、クリントン長官がミャンマーに今回示した援助額は120万ドルだった。いかにも急遽、会談を設定した感じは否めない。しかし、もし米国がミャンマー訪問を表明していなかったら、あるいは、南シナ海に関心が集まっていなかったならば、おそらくミャンマーは中国の厳しい反発を受け止め兼ねたのではなかろうか。この問題の中国側の交渉責任者は習近平次期主席だと言われ、単に、民間企業2社の話ではなく、中国にとっては、ミャンマーという国の問題だけではとどまらない拡がりを持つ問題だと思われる。
 もちろん米国も、単なる白馬の騎士ではない。ミャンマーは地下資源が豊富であり、天然ガスの埋蔵量は世界第10位だという。このままだと欧米はミャンマーの資源に手を出せない。米国のエネルギー業界はこの事態を看過せないために、オバマ政権に圧力を強めていたとしても不思議ではない。
 第二次大戦ではビルマ戦線では18万人の日本人将兵が亡くなった。ウィキペデアでは、ミャンマーというより「ビルマの戦い」としてその歴史、戦争のこと、日本との関係が詳述されている。今は貧しいけれども、資源と水が豊かな国である。国民の90%は仏教徒であり、穏やかな国民性で知られている。1948年に英国から独立したが、何よりも日本を独立の恩人として敬意を表してくれる親日国家だという人が多い。
 日本のメディアは、今後の日本の支援の重点は、軍事政権下でつらい生活をしてきた国民や、国外の難民、少数民族に重点をおくべきだと結論付けているが、本当にそうだろうか。この3つのグループを足すと政府以外の人々全員を援助しろということになる。個人的には軍事政権だからと言って、米国や欧州に追随して交流を控えたことが間違えだったと思えてならない。マレーシアやタイはずっと早くからASEANの中での変化を促していた。この20年の間に中国の影響力がぐっと増した。今後は、アジアの国々とともに、ミャンマーに対する援助を、制度や人材の育成なども含めてもっと積極的に包括的に行うべきだと思えてならない。
 ミャンマーを調べていて、ついでに気が付いたことが一つある。靖国神社遊就館にある泰緬鉄道の機関車の展示に1956年生れの英国人のビル・エモット氏が怒ったのは、クワイ川マーチで有名な「戦場にかける橋」という映画と歴史的真実とを混同しているのかもしれないということだ。泰緬とは、タイとビルマのことである。あれが真実ならば確かに怒っても不思議ではない。ただ原作を書いたのはフランス統治下のベトナムにいたフランス人の作家であり、「猿の惑星」として日本を描いた人の作品である。米国では、12月7日(日本時間の12月8日)に「猿の惑星」が放映されることが多かったという。しかしアジアの歴史を英仏の植民地侵略から描き出せば、別の事実が浮かび上がってくる。太平洋戦争もハワイ王国の併合という時点から歴史が記述されると全く別の風景が見えてくる。そうしたことを全て受け止めながら、軍国主義植民地主義には反対しつつも、激することなく歴史のねつ造には、きちんと反論できる背筋の伸びた日本でありたい。

2.イラワジの流れ
 ミャンマーインドシナ半島の西側にあり、日本の1.8倍の国土を持つ人口5000万人の貧しいけれども資源と水が豊かな国である。国境は高い山脈に囲まれ海岸方向に開けている。イラワジ川はヒマラヤの南端を水源とし、ミャンマーの中央部を南北に縦断する大河で、全長は2170キロになる。雨季と乾季で10メートルも水深が異なり、多くの住民がこの川を利用している。
 最大の特徴は、アジアの大河でありながら、水源はチベットではなく国際河川ではないところにあるのかもしれない。(その後の調査により、中国雲南省に伊洛瓦底江・イラワジ川とあり、中国を通っていることが明らかになったのでこれは訂正して取り消す。雲南省には他に怒江・サルウィン川、爛滄江・メコン川、金沙江、紅河・ソンコイ川、珠江があり、6大水系が流れている)
 この川の上流に、中国電力投資集団と中国大唐集団が主導して9つのダム建設を計画していた。7つのダムは少数民族であるカチン族の住む地域に建設される予定だった。一部ダムはすでに完成し、他のダムも建設が進められているという。完成後は中国が50年間にわたって運用し、その発電量の9割を中国に送電するという契約だそうだ。中国の企業は中国5大発電会社のうちの2社であり、中国の国策会社である。アウンサンスーチー女史の反対理由は、ミャンマーには土地開発環境保全に関する整った法規がまだないために、ダム建設は環境破壊をもたらす可能性が大きく、さらに63の村に住む1万2000人以上の周辺住民が移住を余儀なくされている点が問題だという。
 実は隣のメコン川という国際河川でも同じ問題が起きていた。2010年4月にこの川の運用に関連するサミットが開かれていた。中国がダムを上流に設けたことによりメコン川の水位が低下し干ばつが起きているとの問題があり、影響を受けているミャンマーラオスカンボジアベトナムがタイに集まり、中国側との会議が持たれていた。中国は干ばつと水量の不足は自然現象だと強調している。メコン川の水源は中国チベットにあり、その中国国内にあるランチャン川(メコン川の上流)では、主流で4つの大きなダムが、支流では10〜20カ所以上の大きなダムが建設されている。現在さらに80か所以上のダムが建設中だという。
 メコン川水系では、2009年10月に完成し貯水を始めた中国の「小湾ダム」が「三峡ダム」に次ぐ大型水力発電プロジェクトだとされている。その固定貯水量は54億立方メートルもあり、ランチャン川の年間総流量の7〜8%に相当するという。中国側は、ダムは7月の雨期から貯水を始め、干ばつの到来につれ貯水は停止したと言っているものの、この小湾ダムの資料はついに公開されなかった。2010年の干ばつは小湾ダムの貯水と一致し、これによる河流の流量低下も同時に発生しているとみられている。
 しかも今年は一転して雨季が長引きひと月前の洪水となった。当然ながらカンボジアにおいても洪水が起きてものと考えられる。本当の原因が定量的にわからないのが関係国にとっての最初の問題である。気候変動は、年々大きくぶれ始めているのは事実である。水系全体での水の運用、ダムの運用が年々難しくなっていて、国際河川は特に問題が起こりやすい。
 中国国内の三峡ダムの長江下流でも同様の問題が起きている。2011年7月にAFP通信社がこんなニュースを報じている。中国政府は、世界最大の水力発電ダムである三峡ダムを中国の工学技術の粋と位置付け、洪水や電力不足を解決する国家事業として誇示してきた。しかしこの5月、三峡ダムがさまざまな弊害を引き起こしていることを初めて認めたというニュースが流れた。
 三峡ダムの建設は1994年に始まったが、建設にあたって、巨大ダムの大量の貯水の重みによって一帯の地質が変化する可能性があること、数百万人が移住を余儀なくされること、ダムの存在が川の流れを遮断し、汚物がせき止められて水質汚染が進むこと、などが、問題だとされていた。しかしそうした問題は政府の無視できないレベルまで達していると専門家は指摘している。
 三峡ダムが広がる長さ600キロの渓谷は、複数の断層が重なった地形をしている。長江沿岸の斜面の巴東は、昔から地滑りの多い土地として有名だが、ここ数年で被害が急激に増えた。地元高校の敷地内には地割れができ、地震のたびに広がってゆく。2010年の中国政府に調査結果によると、ダム周辺では2003年以降、大半はマグニチュード3以下と小規模ながら、地震の回数が30倍になった。
 2011年はここ数十年で最悪の干ばつに見舞われ、周辺住民の生活を支える水源が亡くなってしまった。中国の水質汚染に関する著作がある作家は、ダムで洪水の被害を和らげることはできるが、下流の湖に行く水が減ることに気がついたと述べ、川の自浄機能の悪化による水質汚染も進んでいるとした。
 下流域の自治体には、三峡ダムの負の影響を相殺するための自前のダムを作ろうとする動きも見られ、問題がさらに悪化・複雑化する懸念もふくらんでいる。中国のマスコミ自体が、三峡ダムの教訓を生かさず流域へのダム建設を続ければ、「長江が川として機能しなくなる」と警鐘を鳴らし始めた。「そうなれば、これまで漁業や農業、河川交易で生活を立ててきた数百万人が苦しむことになる。巨大なダム建設の効果に疑問を持っているのはミャンマーばかりではないのである。
 しかし、テイン・セイン大統領の決定は、明らかに中国の怒りを招いたものと考えられる。というのは数カ月前に大統領が北京で「戦略的な関係」を約束した後のことだったからだ。テイン・セイン大統領の訪中した時に、温家宝首相はミャンマー政府に対し、石油・ガスのパイプライン、水力発電とその送電という各プロジェクトが円滑に行われるために監督することを要求していたという。ベンガル湾から中国雲南省へ続く石油とガスのパイプラインが、ミャンマーの中央を縦断して走っている。
 現在世界の巨大ダム総数のほぼ半分を建設している中国は、今後2020年までに更に大型ダムの建設をさらに増やすことで、発電量を倍増する事を考えているという。アジアだけでなくアフリカでもダム建設に力を注いでいる。スーダンエチオピアザンビア、ガーナ、ナイジェリア、コンゴモザンビークなどで、少なくとも10箇所以上のダムを計画している。
 ところが、どこでも起きている問題は中国国内とほとんど同じだ。例えばスーダンの巨大ダム建設では、5万人の住民が肥沃な土地から砂漠へ強制的に追い払われたという。ガーナのダムでは、国立公園のほぼ4分の1が水に沈んだと報じられている。モザンビークでも、現地住民の生活改善に貢献をすべきだと非難されている。
 巨大ダム建設は、こうした世界戦略にもかかわるために、簡単には諦めることができない問題となっている可能性がある。考えてみれば、温家宝首相は地質調査の専門家であり、胡錦濤主席夫妻はダムの専門家としてのキャリアからスタートしたし、彼らの前の世代の李鵬首相は、水力発電の専門家であり、江沢民主席は三峡ダムの開発を推進した人だった。ミャンマーの巨大ダムの建設凍結の発表を受けて、中国外交部はこの巨大プロジェクトは、厳格な事前調査と検証を経て執り行われれている合同投資プロジェクトであると主張し、習近平氏自身がプロジェクトを再開するように圧力をかけているという。
 10月になって、テイン・セイン大統領は、西側の大国インドにいって、インドの反政府武装勢力の取締りや、天然ガス田開発など資源分野での協力を考えることになった。両国に、中国をけん制する狙いもあるだろう。ミャンマーの国土の西側を縦断するカラダン川を整備し、インドと繋ぐ橋や道路を作る「カラダン・マルチ輸送路事業」の推進と、かんがい事業などのために新たに5億ドルを支援するという。ミャンマーは、インドからの国内天然資源への投資を一層促しており、インドは、すでに民間・国営企業ミャンマーに相当な投資をしている。中国が石油・ガスのパイプラインの起点とするベンガル湾に面するシットウェは、カラダン川とその西側にあるマユ川の河口に位置した大きな出島のような都市であり、カラダンはそこから内陸部に直線距離で100キロほど入ったインド国境の町である。なおミャンマーの海岸部の国境はバングラデシュに接している。 
 中国とのもう一つの注目されているプロジェクトはミャンマーを縦断する石油・ガスのパイプライン工事である。これも中国主導で始まった。2009年3月にミャンマーの政府系石油ガス会社契約され、2013年には、完工する予定だとされている。ミャンマー沖の天然ガスを中国に運ぶ2800kmの天然ガスのパイプラインと、中東やアフリカの石油を中国に運ぶ1100kmの石油パイプラインが建設されている。ミャンマー政府にとっては今後30年間、年間10億ドルの収入が期待されているが、ミャンマー側のメリットは比較的に小さいと考えられている。このパイプラインも、計画地域の住民が立ち退き、中央政府への反乱が多いカチン州やシャン州を通るため、何か騒乱に巻き込まれるのではないかと懸念されている。この工事には、中国企業だけではなく、インドの企業や韓国の大宇が加わっている。
 もしかしたら、ミャンマーには様々な制度や法律を整備したり、貿易を計画したり、環境を管理したり、プロジェクトの進捗を管理したり、国家プロジェクトを独自で考えることのできる人材が不足しているのかもしれない。そうだとするならば江戸時代の終わりの坂本竜馬海援隊のような人々を育てる学校を作る必要があるのかもしれない。それには、日本がお役に立つところがかなりあるのではないかと思われてならない。
 日本でも水争いは、同じ民族であっても、権力者であっても、なかなか口を出せない領域だと言われてきた。一旦渇水が起これば騒乱とならざるを得ない。アジアの降水量やダムの貯水量と水系モデルなどを備えた情報共有のための監視システムが必要かもしれない。共通のデータで議論するところからしか調整が始まらないからである。リモートセンシング技術の活用が期待されるとともに、上流の国ほど自国の行動に節度と説明責任が求められている。

3.ビルマの歴史 ビルマ独立義勇軍と戦後
(歴史上の呼称としてはミャンマーに代えてビルマという旧称を使う)
 ビルマ族の起源は中国青海省付近にいたチベット系の民族だと考えられている。その前に住んでいた南部のモン族と北部のピュー族が南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったビルマ族無人の地となったイラワジ平原に侵入してパガン王朝(11-13世紀)を樹立した。パガン王朝は13世紀にモンゴルの侵攻を受けて滅び、東北部のタイ系のシャン族が強くなったが、やがてビルマ人によるタウングー王朝が建国され、一時はアユタヤや、雲南タイ族を支配した。17世紀にタウングー王朝は衰えて、南部のモン族が強くなるが、18世紀中ばに、アラウンパヤー王が出てビルマを再統一した。その後、英国との3度の戦争を戦い、1886年に英国領インドの1州となった。
 「少人数」で植民地を治める英国の植民地支配政策は過酷である。ビルマの平原にイスラム教徒のインド人を入れ、華僑を入れ、周辺の山岳民族であるカレン族キリスト教に改宗させ、西洋式の教育を施して、官吏や武装警察官に採用した。そしてビルマを無理やりに多民族多宗教の国家に変えてしまった。これが分割統治政策である。ここにビルマが第二次大戦後も長く軍政を続けざるを得なかった原因がある。インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ヒエラルキーを逆転させて対立構造を作りだし、現在の比率でいっても70%を占めているビルマ人は最下層の農奴に組入れられた。
 独立の英雄アウンサン将軍は、1915年にビルマ中部に生れ、ラングーン大学に進み英文学などを学んでいたが、学生運動の闘士となり、大学とビルマ全土の全学連の委員長となった。1938年10月からは政治活動に注力し、1939年8月にはビルマ共産党の初代書記長に就任した。1940年にバー・モウの「貧民党」と合流して、ビルマの主流派を形成した。インドの1州なのでこの年開かれたインド国民会議にも出席したものの、英国の官憲より逮捕されそうになりアモイへ亡命した。
 そこで中国の蒋介石軍への物資の供給である援蒋ルートを遮断するために、ビルマの独立勢力と連携を模索していた日本の陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐と知り合い、一時、鈴木大佐の浜松の実家に滞在していたという。この時彼は25歳だった。1941年2月、日本の資金援助と軍事援助を約束された彼は一旦ビルマに戻り30人の仲間を集めて、当時日本が占領していた海南島の三亜において、鈴木大佐の「南機関」から独立戦争のための厳しい軍事訓練を受けたという。
 1941年12月にはバンコクビルマ独立義勇軍を創設し、日本軍と共に戦い1942年3月にはラングーンを陥落させ、7月にはビルマから英国軍を駆逐することに成功した。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据え、ビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。1943年3月にはアウンサンは日本に招かれ、わずか28歳の若きリーダーと称えられ旭日章を受章し、同年8月バー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった。
 しかしこの頃、彼はビルマ国軍への扱いやビルマの独立国としての地位に懐疑的になり、インパール作戦の失敗などで日本の敗色濃厚となると英国につく事を決意する。1945年3月、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起し、3月下旬には、その反乱軍に対抗することを口実にビルマ国軍をラングーンに集め日本軍に対して蜂起し、5月にはラングーンを恢復し、6月15日には対日勝利を宣言した。そして1945年5月、アウンサンはマウントバッテンと会談し、ビルマ国軍を連合国軍の指揮下に入れ英国指揮下のビルマ軍と合併させた。日本に勝利したものの、やはり英国は約束を反故にし、ビルマの完全独立を許さなかった。ビルマは再びイギリスの植民地となり、1945年10月には英領ビルマが再建され、翌46年1月、アウンサンは軍を去った。
 以後も彼は英領ビルマとイギリスに対し自治を要求し続けた。しかし元南機関長の鈴木敬司予備役少将が、ビルマに連行され、BC級戦犯として裁判にかけられそうになると、アウンサンは、「ビルマ独立の恩人を裁判にかけるとは何事か」と猛反対し、鈴木は釈放された。1946年9月、彼は英領ビルマ政府の行政参事会議長に任命され、国防と外務を担当する重責を担った。しかし彼は反英独立主義者であり、あくまで完全独立を目指して活動を続けた。
 1947年1月、アウンサンは英国首相アトリーと、1年以内の完全独立を約した「アウンサン・アトリー協定」に調印した。4月の制憲議会選挙でアウンサンのグループは圧勝し完全独立に向けて英国と交渉し、国内対立の調整し、国家統一への苦しい道を模索し続けていた。そのさなか、47年7月アウンサンは、6人の閣僚とともに暗殺されたのである。32歳だった。ビルマの人たちは、今でも英国が人を使ってアウンサンを暗殺させたと信じているという。1948年にミャンマーは英国から独立した。しかし国軍は1942年のビルマ独立義勇軍の創設をもってその始りとしている。
 1948年に独立したものの、独立を求める麻薬産業を背景にする北部シャン州と独立志向の強いカレン族などの南部諸州、中国から乱入した国民党の残党、共産党勢力の対立の中で国軍が徐々に力を獲得し、ネ・ウィン将軍が実権を掌握し1962年に軍事クーデターを起こし大統領に就任した。しかし、経済政策の失敗から深刻なインフレとなり、民主化運動が高揚するなかで、1988年国軍が再度クーデターを起こし政権を掌握した。この政権は総選挙を公約としたため、全国で数百の政党が結成された。英国から帰国していたアウンサンスーチー女史らも国民民主連盟 (NLD) を結党した。
 それからはアウンサンスーチー女史の長期軟禁と解放がしばらく繰り返しされ、その選挙の約束は反故にされ続けた。1990年5月の総選挙で圧勝しても軍政は実権を渡さなかった。議会の招集を拒否しかえって民主化勢力の弾圧を強化した。2006年10月10日に正式に行政首都ネピドーへの遷都や、2007年9月の燃料の値上げを背景とした仏教僧による大規模な反政府デモが数万人の規模に膨れ上がり、武力弾圧によって多数の死傷者を出した。2008年5月の新憲法案が国民投票で可決され、民主化が計画された。2010年2月、国民民主連盟(NLD)の副議長の自宅軟禁が解除された。11月に総選挙が実施された。連邦団結発展党が8割の得票で勝利し、2011年3月、軍事政権のテイン・セイン首相が大統領になった。最高決定機関は解散し、権限が新政府に移譲されたが、新政府は軍関係者が多数を占めている。2011年7月になり与野党対話が始まり、国家の発展のため協力し合うことで合意した。2011年10月に政治犯を含む6359人が恩赦によって釈放され、政治的にも復権した。アウンサンスーチー女史の国民民主連盟(NLD)が政党として再登録される可能性が出てきた。
 アウンサンスーチー女史の人生自体も、過酷なものだったと考えられる。彼女は独立の英雄アウンサン将軍の娘である。ただ2歳の時に父親は暗殺されている。その時アウンサン将軍は32歳の若さだった。将軍の妻、即ち彼女の母親がインド大使として勤務していた時にデリーの大学を出て、英国のはからいでオックスフォードで学んだ。その後、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で研究助手を務め、1969-71年にはニューヨークの国連事務局で働き、1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者の英国人と結婚し2人の息子をもうけた。つまり人生の青年期から大人になるまでのほとんどを海外で過ごしていたということになる。
 この英国人の御主人は英国情報部のMI6に勤めていたとされている。そのため、ビルマ国軍は、彼女の主張・発言は、独立の英雄、アウンサン将軍の娘ではあるが、かつてビルマの人々を人間として扱わずに苦しめた英国の指図によるものだと、考えていたのではないだろうか。ここにもう一つの英国の植民地支配の過酷さがあるという人もいる。彼女は1985-86年には京大の東南アジア研究センターの客員研究員として、アウンサン将軍について研究を進めていたという。1988年4月に母親の看護をするためビルマに戻り、長期独裁のネ・ウィン将軍の辞任と軍部のクーデターに出会ったことが彼女の人生を大きく展開させたと考えられている。
 近年、アウンサンスーチー女史は、国際的にもミャンマーが置かれた状況が大きく転換していることに気づいたと言われている。今迄は軍事政権を儲けさせないために、来ないでほしいと言っていたが、今はミャンマーの国民経済を助けることになるので外国人の観光客にどんどん来てほしいと表明している。国民の生活を向上するためにぜひ来てくれと言い出した。もしかしたら、軍事政権と折り合える部分で折り合い、ミャンマーの国民生活を向上させることに注力するようになっていくのかもしれない。