池本農業政策大観を読む(1) 鐘紡の志

 今年百歳になられる1912年生れの武田邦太郎先生が30歳の時に石原莞爾将軍にすすめれてまとめたのが、池本農業政策大観である。今から70年前に出版された。軍事の天才石原閣下が農政の国宝的天才と考えていたのが、フランス農村物語を書かれた池本喜三夫先生だった。その池本先生が日本の農業の将来像をどう考えていたかは、当時の人も本当に知りたがっていたようだ。自分も今、同じ気持ちでいる。
 池本先生は、1899年生れなので当時43歳だった。鐘紡農務課の実務を切り盛りしていたため、とても忙しかったという。池本先生の了解の下、同じ鐘紡農務課に勤められていた武田先生が池本先生の農業政策をまとめられた。今はもうなくなってしまったが、明治から昭和初期にかけて、鐘紡は日本最大の企業だった。その鐘紡が、武藤山治の後を継いだ津田信吾社長のもとで農務課を作り、アジアで農業を経営していたことは存外知られていない。いつかその全体像を知りたいと考えて数年になる。池本先生も武田先生も、戦後は池田内閣の農政顧問だった。武田先生は参議院議員としても長く活躍されていた。個人的には全く面識はないが、可能ならば、先生の農業に対するお考えをもっと知りたいと願っている。
 政策は時としてその立案担当者が思いもつかない方向に流れることがある。そのため発想の原点を知ることも肝要だ。つい最近の農家に対する個別所得補償政策がそうだった。米農家の経営規模を拡大するための切り札的政策となるはずだったが、いつの間にか、零細米農家の保護政策へと姿形が変えられてしまった。

 池本農業政策大観は、池本先生の歴史から始まる。1899年に淡路島に生まれ、父上が北海道で大農経営をめざしたため、1905年に渡道したとのことだ。彼が東京農業大学を卒業する頃までは小作農数十を抱える地主であり、数十町歩の自分の耕地と農産加工場を自営する十勝の大農場だったという。池本先生は、1917年に岩見沢の空知農学校に入学したが、特に新しく教わることもないほど、農業の知識や技術を習得していたという。既に自分の研究に重点を置いて生活していたという。この時、「アイヌ農業史」、「十勝開拓史」を脱稿したという。この2巻は主として自然の大災害とその対策を歴史的に叙述したものとのことである。北海道農村の父といわれる空知農学校の蛎崎知次郎校長は、特に彼をかわいがり、自分の校長生活20年の意義は池本を教えたことにあると言っていたという。農学校卒業後は1年間、大農場の生活に戻ったが、1921年欧米留学準備のために東京農大に入学した。1921年に農大を卒業し、前後8年間ヨーロッパに留学した。パリのソルボンヌの経済学部、社会学部に学び、後にナンシー大学の農学部に学んだ。フランス革命前後の農村の変容を研究したようだ。池本先生は、様々な階級の農家に入り込み、生活と労働を共にするというやり方でフランスの農村を研究されたという。農学博士の学位論文のテーマは、大学の希望により、明治維新とその農村部への影響についてだった。論文は最高の評価を得たようだ。この分野の大家だったアンリ―・セーによって、社会経済史学の数年間の成果を紹介する論文の中で、最大の紙幅と賛辞をもって紹介されている。そして1931年に日本に帰国した。留学中に家産は傾いたため、当初の志だった自ら理想の農村を建設することは果たせなかった。
 池本先生は、以後、5年間、母校の教壇に立ち、全国の農村の調査と指導、そして講演に飛び回ることとなった。この間に書かれたのが「公役軍の建設」「新農業教育機関の提唱」「黄河以北対支文化工作案」という論文であり、農村におけるラテン的要素の重要性を指摘するために書かれたのが「フランス農村物語」である。また「フランス農村社会史」などが訳された。日本の農村の疲弊の根本には、農政および農村指導の貧困があり、農業教育の貧困が横たわっているというのが先生の考えだった。学問のための学問ではなく、大学自体が自ら現実の農村でもあるような形態があるのではないかと考えていた。
 1936年アフガニスタン政府の要請により、池本先生が、同国農業顧問兼カブール大学教授に派遣されることが決まった。池本先生の、アフガニスタンに民間ベースで「日亜農鉱専門学校」を寄贈すべきと論じた意見が朝野の賛同を呼んでいたのである。同国の有為の青年に日本語を教えるとともに、日本文化による農鉱業の技術並びに学理を教授し、回教による宗教教育を行い、その卒業生をアフガニスタンの指導者に育成すべしとの考えだった。それにより同国の興隆をはかり日本との親善に役立てようとの考えだった。鐘紡の津田社長との面談により、鐘紡がアフガニスタンの資金を出すことが決まった。
 話をするうちに、鐘紡が国策的な見地より、北支において数千町歩の土地を購入していること、津田社長の興亜産業報国の理想と事業家精神に池本が感動したこと、池本の人格識見に津田社長が満足したことなどが相まって、軍官が協議するところとなり、アフガニスタンには別の人を派遣し、池本先生は鐘紡に入社することとなった。満州支那の農業を彼に担当させたかったのである。日支事変勃発の半年前だという。
 5年後の鐘紡農務課の姿が素描されている。内外の事業地は二十程あり、経営は着々と軌道にのりつつあった。

(1)内地
①大分別府城島高原の300町歩の緬羊牧場:コリデール種のほか、サウスダウン、ドーセットホーン、ライランドなど優良品種450頭を飼育。
②鹿児島鹿屋の35町歩の牧場:狭小面積による緬羊の集約専業飼育の企業化の実験研究が行われ、優良品種500頭が飼育。2つの牧場から、東北地方と大陸に2000頭が送出。
③北海道根室:250頭面積3000町歩の種馬牧場。
④静岡:2400町歩山林経営。
⑤農家副業(14千戸):採毛用のアンゴラ兎と毛皮・肉食用のチンチラ兎の増殖頒布
(2)大陸
⑥王府種牧場(新京の近く):満州国の緬羊増殖と蒙古人の福祉を目的とする6300町歩の牧場。3千頭のメリノ、コリデール、カラクール種。
⑦興安東省札蘭屯(ジャラントン):11万町歩の馬牧場、500頭の基礎馬。
⑧亜麻栽培:朝鮮、満州、蒙疆(蒙古、新疆)で委託栽培と農家指導と各地の製線工場
⑨葦パルプの原料生産:朝鮮新義州5千町歩、満州営口2万町歩の葦田。
⑩北支天津の近く:7千町歩、住民1万人の理想農村社会の総合的モデル集落の建設。
⑪中支江蘇省:百万町歩、300万戸の農家の運営の指導研究。農業大学、医科大学、紡績大学、病院、工場等の農村文化施設の継承、綿花栽培と小家畜の飼育、これを原料とする諸工業の運営。
黄河淮河下流:300万町歩のアルカリ不毛地帯に対する土地改良計画の研究。
⑬張家口:1万町歩の疎放農業の大牧場。4000頭のコリデール種の育成。
⑭天津、上海:牛乳・肉加工の事業

 池本農業政策が全面的に実現をみるか否かには、日本とアジアの農民、農業、農村の向上発展がかかっていた。2011年に、地球の人口は70億人となった。経済が発展すると、主食中心の食生活から、副食へのシフトが始まる。それを止めることはできない。中国では農地が削られ、砂漠がますます広がっているという。池本農業政策の研究が今一度必要な時代になっているのかもしれない。