李登輝さんの考え方

 東日本大震災以来、台湾のことが少し気になっていた。9月に台湾を訪問した日本人旅行者数は月間で過去最高の12万3千人(前年同月比で34%増)となったのも、なんとなくわかる気がした。李登輝さんが中華民国総統時代に出版された「台湾の主張」(PHP社、1999年)をじっくり読んでみた。それには、自らの思想遍歴や政治哲学、台湾の「繁栄と平和」の原動力、そして中国、アメリカ、日本に望むこと、台湾とアメリカと日本が協力してアジアに貢献できること、21世紀の台湾の在り方が書かれていた。心にしみる言葉と教えが多かった。12年前の本ではあるが、多くの方に同書の一読、再読を薦めたい。
 以下、1)学んだこと 2)指導者の役割と政治哲学 3)中国と台湾 4)自由民主主義の地殻変動と日本 5)農業政策の5点について纏めてみた。

1)学んだこと
 1923年日本統治下の台湾に生まれる。36年に旧制中学に入った。そこでは鈴木大拙の著作や漱石全集を読み、「三太郎の日記」、「出家とその弟子」の親鸞の言葉に感動し、古事記本居宣長の玉勝間を紐解き、源氏物語枕草子平家物語を熱心に読んだという。大拙の「自我を抑える」という考え方に影響を受け、便所掃除などの他人がやりたがらない仕事で克己心を鍛えた。当時の日本にはこうした唯心論が浸透していた。
 旧制台北高等学校では、善の研究和辻哲郎の風土、カーライルの衣装哲学、ゲーテドストエフスキー魯迅の阿Q正伝や、郭沫若の著作に傾倒したようだ。(ふと自分が阿Q正伝や春香伝のことを教わったのは、ごく普通の地元の公立小学校の授業だったことを思い出した。日教組バリバリの先生に教育を受けていた。ただ左にかぶれるには幼く凡庸だった。)
 42年に京大農学部の農業経済に入り、マルクスエンゲルスの本を読み漁った。マルクス経済学が資本ストックの問題を解明しようとしていたことが魅力だった。「台湾の農業労働問題の研究」を卒論とした。学徒動員で出征し終戦時は陸軍少尉となって名古屋にいた。
 46年に台湾に戻り台湾大学編入し、勉強を再開したものの、47年のニ・二八事件の時は弾圧される側にいた。国民党に対立すると看做された知識人は全て弾圧の対象となり、その犠牲者は3万人を下らなかった。当時の人々がどのように思い、どのように行動したかは、あの複雑な時代を生きた者しかわからない。
 49年台湾大学を卒業し同大学の助手となり、結婚して、経済と人口問題の研究でノーベル賞をとったT.W.シュルツのいた米国のアイオワ州立大学に留学し農業経済学で修士号を取得した。帰国後は理屈だけを追求する人生に耐えきれなくなり、奥様とともに、3年間毎週4-5回、台北の全ての教会の聖職者の話を聞きにまわったという。そして神が実在するかどうかを考えた後、キリスト教に入信した。
 65年コーネル大学博士課程に再び留学、68年に農業経済学博士。博士論文は台湾の経済発展におけるセクター間の資本の流れを分析し全米最優秀農業経済学賞を獲得したことが知られている。
 78年から台北市長を務めた。その際、人々の不満に耳を傾けて政治に生かしていくといった方法を重視するようになった。岩波書店の「都市講座」等も全て目を通し様々方向から検討した。都市問題について精緻な調査も行った。都市計画の問題は、その基礎となるデータをしっかり押さえることが大切だ。一人あたりの所得はどれだけか、生活レベルはどこまで来ているか、住居の大きさはどれほどか、そういうデータが正確に把握されないとバス亭の設置も、ガスの設備の問題も、学校の増設の問題も計画できない。大阪の事例を参考にしてシビルミニマムインデックスという指標を作って説明した。どこに力を入れれば、どこに波及効果が生まれ、どこに別の影響が起こるかが一目瞭然だった。この指標を使って細やかな議論をすることが可能となった。数字と実際で差がある場合には、予算の分配やウェイトのかけ方を変えて納得いくまで話し合ったため、議会だけでなくて市民が行政を理解するのに役立った。
 台北市長を務め、台湾省主席を経て、国務大臣に就任し、副総統となり、総統となった。これまでの中国文化においては、政治とは先ず何よりも人民を管理することだったが、そうした政治は台湾において過去のものとなっている。台湾にとって何をすべきかを考え、「仕事」を設定してそれを遂行するのが私の任務であり、課題である。
 総統となってからは、易経を勉強することによって事象の普遍の本質を把握し、政治と政策の基礎を固めたいと考えた。「易」は時間の方程式であり、変易、簡易、不易の3つで説明される。「時間は絶え間なく変化し、万物万象もこれに従い変動して停止しない。この無常の変化のプロセスの中に変わらざる真理が存在する。この不変の本質を把握し、本来の変化を予測しようとすれば、必ず誠実な魂が必要とされる」という。易経を学ぶことによって、人と人との間、人と組織の間、組織と組織の間での複雑な関係について新しい考え方を学んだ。また人間の自我意識、人と制度の関係、国際社会の活動、国家を指導する際の問題についてヒントを得た。

2)指導者の役割と政治哲学
 国家元首として必要なことは、毎日変化する国内外の情勢にいかに対応するか、さらにそれに伴う政策を選択する際、いかにして事象の背後にある真理を捜し求め、物事の前後と軽重の順序を見極めるかということである。そしてそれに基づいて国家国民にとって最も有利な政策を打ち出すことが何より重要だ。 政治はしばしば即座の結果が求められるために、即効性のある結論を選択しがちだが、そうした政治は往々にして国を誤った方向に導く。問題に直面した時に決して直線的に考えずに、むしろ回り道や間接的な方策から事案を解決することが重要だ。迂遠なように見えて、長期的な展望を以て先ず農業の生産性を伸ばし、その基盤の上に立って工業を発展させ、先端的な技術を獲得し、資本の蓄積を行って、金融の力も付けていくといったやり方が真の発展につながる。
 普段は自分を律している枠組みからいったん離れた時に、「信じる」という行為の重要性がわかってくる。これは理屈っぽい人は時間をかけて克服するしかない。「われわれは自我を持つ利己的な個人に他ならない。しかし社会という場で生きるには、お互いが愛を持って生きるべきであり、その愛が深く肯定的なものならば、社会は思いやりと活力に満ちたものとなる」ということが自分の政治哲学だ。
 儒教には、キリスト教にあるような「死」と「復活」という契機がない。そのことが中国社会に多くの問題を引き起こしてきたと思われる。儒教は「生」への積極的な肯定だけが強くなる危険性がある。人間は有意義に生きようと思えば、常に精神的な意味での「死」、即ち、自我の否定を考えなければならない。
 私が日本思想から得た最大のものは「精神的な鍛錬」の部分ではなかったかと思う。現在の日本は、私から見ても堅苦しく硬直しているように感じられる。政治も学問も、まじめで、行儀正しく、きめ細かい。
 しかし、政治家は時として、実務的に身に付けた「能力」や「利害」を無視して、ものごとを「大きく太く」考えることが必要になる。それは「信念」に裏打ちされた力である。学問も同様だ。現実の社会を見据え、問題点をはっきり認識し、日本を良くしたいという信念をもって積極的に社会に問いかけていく。大事なことは信念をもって行動を起こすことである。
 日本の場合、明治維新の後の留学生や政治家、終戦直後の日本人が外国で母国を思いながら活動を再開したときも、何とか日本を良くしたいという信念は強固なものだった。信念は、自らに対する信頼と矜持に他ならない。

3)中国と台湾
 毛沢東は農民が基盤となった革命が可能だと論じたが、現実には農民革命を起こすことができなかった。その最大の理由は中国人の家父長的考え方にあり、それが現在の共産党独裁の問題につながっている。
 共産党毛沢東の聯合政府論に基づき、国民党と聯合することで対日抗戦を行い、その中で共産党に人民を引きつけ、そのあと、国民党を潰しにかかった。その後も文化大革命という権力政治を行うことによって自らの独裁を維持しようとした。
 中国大陸の行動パターンはこの聯合政府論のやり方だ。アジアの政治・経済的基盤を自分のモノにすれば聯合した相手を排除する方向に動くはずだ。共産革命によって生まれてきたのはアジア的停滞からの脱却でも、中国の伝統からの離脱でもなく、覇権主義的な中華の復活である。
 孫文三民主義は次のように要約できる。「今の中国に必要なものは清朝専制政府を打倒し、帝国主義者の侵略から国を開放し、中国人の中国をつくること、その中国は民主共和国でなければならないこと、民族主義民権主義に加えて民生主義が必要なことである。」
 困ったことは中国大陸では覇権主義と結びついた民族主義ばかりが強調され、孫文が唱えた民権主義と彼の口癖である「天下は公のために」といった考えが忘れられていることである。孫文民族主義といったのは、当時、ヨーロッパの帝国主義が最盛期であった時代背景があったことを思い出すべきである。
 これからの台湾は、精神を変革することで、自由で解放された社会の基礎の上に、文化の「新中原」を建設したいと考えている。「天下は公のために」という孫文の考え方は、私の政治信条の中心にある。
 台湾は、中国大陸が世界標準の自由と民主的な制度を、台湾とともに享受することを願い、大陸からの脅威が消滅することを一日千秋の思いで願っている。そしてそれは台湾だけの願いではない。台湾が豊かで平和な社会を実現していけば、大陸も今のままでいられなくなり、中国全体が台湾化する。台湾が存在感を失い大陸に制されてしまえば、中国全体が覇権主義的な矛盾した体制を持つ地域になってしまう。そうなれば次は日本の「存在」が問題になる。台湾とその周辺が危機に陥れば、シーレーンも脅かされ、経済的にも、軍事的にも日本は完全に孤立することとなる。その意味では台湾は日本にとっても生命線なのである。
 台湾にアイデンティティを持つ政治とは、先ず何より台湾への愛着がなければならない。そして台湾のために粉骨砕身、大いに奮闘する人物がやらなければならない。台湾の国際的な地位をはっきりさせる必要があることは確かでも、私は「独立」に拘泥する気はない。現在は「中華民国在台湾」「台湾の中華民国」を確実なものとすることである。台湾自体のアイデンティティを明瞭にして国際的な地位を獲得することである。

4)自由民主主義の地殻変動と日本
 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」でのべたように、自由経済と民主性の組み合わせが歴史を終焉させるという考え方に賛成できない。急速に民主主義化された社会では、かえって大衆迎合の政治が生ずる危険もある。しかしこの問題は時間にゆだねるしかない。民主主義という制度自体が、政治目的に直線的に突っ走る独裁制と異なるのはこの点だ。アメリカのような民主主義の歴史を持つ国でさえ多くの問題を抱えている。ゆっくりと回り道をして一つ一つの問題を着実に解決していくしかない。
 レスター・サローが「資本主義の未来」で分析しているように、資本主義の市場の拡大、コンピュータ化、人間の移動と先進国の高齢化、グローバル化アメリカの地位の低下といった5つの大きな地殻変動が起きている。
 それに対して政治は何を基盤において政策を立てていけば良いか、明瞭な答えを出せなくなっている。「民主主義の根幹は一人一票であり、資本主義の効率の根幹は、適者生存と購買力の不平等にある」からである。それぞれの国の政治家は、この困難な状況の中で自分達の国の未来を描いていかなくてはならない。
 台湾が経済発展を進め、民主主義を推進するうえで最も参考になるのはアメリカである。多くを学び、研究しなくてはならない。アメリカの政治を無視しては世界政治がわからない。しかしアメリカの外交はいつも左右に大きく振れていて実体は読み取りにくい。それは政府の現実主義と議会の理想主義の緊張関係での中から政治が出てくるからだ。私はアメリカの理想主義を高く評価する。それは移民社会には不可欠なことでもある。議会は伝統的に台湾に対して同情的だ。
 しかしアメリカにもそれぞれの事情がある。ある州は台湾を疎遠にし、ある州は戦略的に台湾を大事にしてくれる。台湾は、こうした多重的なアメリカとの関係を十分認識しているし、情報収集も怠りない。
 例えば、ロックフェラー3世の本拠地であるウェスト・バージニアには小さな飛行機工場を合弁で設立し、900人を雇用できたのは大きな地域貢献になった。台湾企業が進出すれば、その地域のアメリカ上院、下院議員との交流が生まれ、意見交換する機会ができる。地道なつながりが様々な局面で生きてくる。様々な文化的な絆も作り上げてきた。(日本も州ごとの情勢分析と交流を深めるべきなのだろう。こうしたことへの言及に実に温かい配慮を感じる。)
 日本はこれまで台湾にとって大切な教師だった。都市問題、農業問題、工業化の方法について日本から多くを学んだ。1985年のプラザ合意以降、急速な円高で自分を見失ったのではないかと思われることが多い。その最大の原因は日本の政治の世襲制があまりにもひどくなったからだと思う。(その反動として実現した政権交替。たしかに回り道しかないのかもしれない。)
 私は日本の世論が、アメリカと中国大陸との表面的な動きに刺激されて、過剰反応し何か大きな変化が既に起こっているように誤解すると、お互いのために不幸なことになると心配している。外交には表面の流れと深く強い裏面の流れがあることを理解していただきたい。
 日本は内需拡大についても身動きが取れないように思い込んでいるが、疑問を感じざるを得ない。住宅も不十分だし下水道普及率一つをとってもずっと低い。日本人が持っている家具や家財道具は必ずしも立派なものではなく財産となるようなものではない。内需拡大はやり方によっては困難ではないのではないか。財政を調整して公共投資を無くすような政策を採用しながら、景気対策を考えるので、せっかくの潜在力が活きない。
 なぜ日本人から柔軟性が失われ必要以上に緊張しているのか。いくつか理由があるが、最大の理由は日本社会が多様性を失っているからだ。どのような社会でも活力の源泉は多様性と包容力である。最近日本はマスコミの報道も、打ち出される政策も一つの考え方に固まっているとしか思えない。
 日本はグローバルスタンダードに対応するだけの力を十分備えている。むしろ国際社会に積極的に出て行って自国の要求をすべきなのである。日本は虎穴に入ってこそ強くなる。日本は政策の選択肢をもっとバラエティに富んだものとすべきだろう。本来、日本には非常な多様性と深みが備わっているはずである。活力に満ちた人材もいる。既得権益が強い状況で実力が発揮できないだけだ。あまりにも自信喪失して、世界に稀な自らの持てる条件を活かせなくなっている。もう少し冷静に周りを見直し、自分たちの実力を見直すべきだろう。アジアもそのことを望んでいるし、世界もまた同じ思いなのである。

5)農業政策
 孫文は、土地問題を正確に把握し「地権の分配」という問題を非常に重視していた。その土地の気候とその土地の農民は切り離すことができないのである。その土地で働かないものに土地の所有を集中させてしまったら、結局は生産性をあげることはできないと見抜いていた。大学院で指導を受けたT.W.シュルツも農業問題は農業だけをみていては決して解決しないと論じていた。
 日本が農業基本法を導入した際には2か月間ほど滞在して、つぶさに調査を行った。日本の農業に転機が訪れたのは高度成長期の池田内閣時代だった。工業化による用地買収が農地の大幅な縮小と地価の高騰をもたらした。台湾においても蒋経国時代に同じ事態が日本以上の速度で進んだ。
 人口の圧倒的多数を占める農民の生活基盤をを確保しつつ、工業化を順調に進めるにはどうすればよいのかが問題だった。「台湾ではまだ工業が十分に発達してないにもかかわらず労働力の不足が言われているが、その不足分は農地買収で離農した労働力を吸収できるほどは大きくない。したがって農地を売却させるより、農村外から資本を入れて、農村を助けながら、国全体の生産力を上昇させる方が良い」という結論を出して当時の蒋経国総統を説得したことを思い出す。
 「農地売買の制限を緩和して、自作農だけでなく、他の人や企業も自由に農地を売買できるようになると、企業が農業に参入して合理的な農業を行うため、土地の生産性が上がる」という議論は正しいようにも思われた。しかも農民にしてみれば、兼業化していく過程にあるから、ある程度のお金が手に入るなら農地を手放しても構わない気になっていた。もし何の補助的な措置もなく、農地の売買が自由化されれば、農地は投機の対象になる。その結果、地価が高騰し農地は農業のために使われなくなり、工業用地や住宅地に転用されてしまう。その結果台湾には農地を失った元農民の失業者があふれることとなっただろう。(世界の人口が70億人を超え、ランドラッシュという農地の買占めが世界的に始まっている現状では何が起こるのだろうか。)
 早晩、農業人口は減少していくし、またそうでなければ台湾は発展しない。台湾省主席だった時に主張したのは、急速な自由化を阻止し将来に備えて生産性の高い農業を行う「核心農家」8万戸を創出し、その子弟は農業専門学校で最新の農業技術を学べるようにすることだった。そうなれば台湾農業の未来図は描けると考えた。そうした核心農家の2代目が活躍し彼らが農業を支える時代になれば、彼らが農業法人を作って大規模な農業経営を始めても良いと考えていたのである。
 今ならば、台湾も最先端な工業を有する産業国であり、農業人口も圧縮されているので失業問題につながる心配もない。しかし「核心農家」にしても、まだ現在は資本の規模が小さいため生産性をあげることは難しい。また技術革新によって他の分野の生産性が飛躍的に伸びている中では、常においていかれる心配をしなければならない。ここでも気を付けなければいけないのは、農業法人化して資金力をつけるという話が、いつの間にか企業法人の農地の投機に化けてしまうことだ。分割売買や一括売買でいつの間にか高級住宅地に代わってしまう。生産性の低い農地は、放置しておくと生産性の高いものに転用されてしまう。農業法人を作るにしても、農業の発展・維持に貢献することを基軸を置く必要がある。
 同時に衛星探査技術による農地の改良や、ソーラーシステムによる太陽熱の利用、トラクターのロボット化による省力化、遺伝子技術による品種改良などの新しい技術を取り入れなければならない。ここでも、さらなる資金力と技術力の問題が出てくる。こうしたプロセスをスムーズに行うためには農業のためのベンチャーキャピタルを考えなければならないし、実際の農地で新しい研究の成果が実践できるための制度や基金も必要となる。
 日本の農業政策について言えば、あまりにも硬直的だと思う。農業経営の新しい単位を考えること、法人化の推進が考慮されないことは無策といわざるを得ない。日本は自分たちの弱さを列挙することをやめて、自分たちの強さを並べてみてはどうだろうか。