アフガニスタンの小麦とウズベキスタンの桜

1.アフガニスタンの小麦
 たまたまテレビをつけたら「緑」のアフガニスタンが映っていた。荒涼たる荒地のアフガニスタンの写真しか見たことがなかったので少し驚いてみていた。戦争が始まる前のアフガニスタンは緑あふれる国であり、小麦を自給していたという。戦争が終わって、荒れ果てた畑に農業を復活させようとして米国の小麦の種を持ち込んでも、灌漑設備がなく、雨の降らないアフガニスタンではまともに育たず、そのままではケシの栽培をするしか暮らせないとのことだった。ところが横浜市立大学には昔のアフガニスタン原産の小麦の種子が保存されていたという。何種類ものアフガニスタン原産の小麦の種を使って雨の少ないアフガニスタンに適した小麦を復活させるプロジェクトが始まったとのことだった。京大の山中伸弥教授のノーベル賞と並んで、なんとも嬉しいニュースだった。
 なぜ横浜市立大学アフガニスタン原産の小麦の種があったのかに興味がわいた。調べてみると、麦の研究で有名だった京大の木原均先生の研究資料が、横浜市立大学に引き継がれていたのだった。その小麦は、木原先生と今西錦司先生が隊長をされた1955年の「伝説」の京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊が持ち帰ったものだった。緑のアフガニスタンの映像もその時のものだと推察される。遺伝子のゲノム分析を通じて、小麦のルーツは、現在のカスピ海南岸地域、アフガニスタンからイラン、イラクにかけての地帯であることを木原先生が明らかにした際の資料ではないだろうか。アフガニスタンは小麦のルーツだったのだ。この学術探検隊には、若き日の梅棹忠夫先生も参加されていた。文明論の生態史観が発表された年次を考えると、この学術探検隊への参加が梅棹先生の発想を刺激したはずだ。第二次大戦前にも当時のアフガニスタン王国に「日亜農鉱専門学校」をつくるという構想があった。この池本喜三夫先生の構想と学術探検隊の成果とが、池本ファンの自分には2重写しとなってくる。
 アフガニスタンは、西にイラン、東と南にパキスタン、北はトルクメニスタンウズベキスタンタジキスタンにかこまれており、ユーラシア大陸南部にある。日本は、米国に次いで世界第二の経済支援国で、日本のNGOの活動はアフガニスタン全土に及んでいるという。
 アフガニスタンの国家運営の難しさは、その土地の地形と歴史にあるとされている。面積は日本の1.7倍で、山岳地帯に10以上の民族2800万人がモザイクのように住んでいる。この地域の支配を試みた外国勢力はペルシャギリシャ、インド、イスラム、モンゴル、イギリス、ソ連、そして米国と多種多様だった。住民は状況に応じ結束と分裂を繰り返しながら、外敵を必ず追い出してきた。この実に難しい地域で、日本は隠れた戦略目的を持たずに支援するほぼ唯一の国としてタリバン側からも信頼を得ているという。
2.ウズベキスタンの桜
 ウズベキスタンの桜の物語を知ったのは、つい最近のことだ。首都はタシケントとなっているが、歴史好きな人にはシルクロードサマルカンドのある国といったほうがわかりやすいかもしれない。面積は日本の1.2倍、人口は2500万人。国土の4分の3を砂漠と草原が占めている。120以上の民族からなる多民族国家だ。主要産業は綿花と小麦で、国民の85%がイスラム教徒だ。ソ連の計画経済時代に綿花栽培の役割を割り当てられたため、エネルギー資源の開発が進むまでは綿花のモノカルチャー経済だった。元来降水量が少なく、綿花の栽培に農地の大半を割いているため、各種穀物・果実野菜類を産む土地をもちながら、食料自給率は半分以下だという。天然ガスが有望で270万トンの亜炭、380万トンの原油も採掘され、ウランの世界シェア5%だという。アフガニスタンの小麦はウズベキスタンでも役に立つのではないだろうか。
 ウズベキスタンには、古くからの言い伝えがあり、古い昔、ここに住む人々のうち、魚を好む人々が日本に行き、肉を好む人々がここに残ったという。たしかに顔つきも日本人によく似た人が多い。自分の叔父さんや叔母さんにそっくりの人に出会うという。正直で、心持ちも優しく、性格や考え方も似ているという。路地には、子供たちが大声を上げて走り回り、農村ではロバが荷車を引く。朝は早くから起きて、自宅の玄関の前を掃き清め、打ち水をする。地方では、綿の入ったドテラのような着物を着ていて、子供の頃の日本に戻ったような気がするという。
 チャーチルの第二次大戦回顧録にあったロシアの略奪は日本からも行なわれた。一般に「シベリア抑留」という言葉がつかわれるが、実際にはモンゴルや中央アジア北朝鮮カフカス地方、バルト三国などソ連の勢力圏全域に送られ強制労働に従事させられた。この行為はポツダム宣言にも、共産主義思想にも背いた行為だった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した。107万人が抑留され34万人の日本人が死亡した。給料も払わず、ろくな食事も与ず、日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械や設備をまるごと持ち帰り、ソ連勢力圏の確立のために使った。道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々、国内インフラの整備を行なわせた。
 今年の夏から始まっているという赤十字による北朝鮮との交渉は、その時の遺骨の返還交渉だという。しかもその墓地は既に何回か移設されている上に、遺骨の返還にも、お金を要求されているという。
 ウズベキスタンに抑留された日本人は25千人。運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などにあたったという。過酷な気候条件と厳しい収容所生活、栄養失調や病気、事故などで、2年間で800名を超える日本人がこの地で亡くなった。日本人の造った道路や発電所は、今も重要な社会インフラとなっている。国立ナポイ劇場の建物は、今やウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっているようだ。市民は、劇場が建設された当時のことをよく覚えていて、日本人は捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったという。
 「たちあがれ日本」の国会議員中山恭子先生が1999年にウズベキスタン大使として赴任した際に、水力発電所建設の元現場監督に会ったという。彼は、涙ながらに、苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをしない日本人、栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わすに、明るく笑顔で働く日本人、過酷な情況にあっても、きちんとした仕事をする日本人について話したという。そしてウズベキスタンの母たちは、今も「日本人のようになりなさい。日本人の捕虜は正々堂々としていた。彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。」と子供に教えているという。
 中山大使が赴任された時のウズベキスタンの日本人墓地は粗末な十字架が幾つも並んだものだったという。旧ソ連では、日本人の墓など作らず、墓は廃棄しろとの命令があっても、ウズベキスタンの人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りぬいてくれたという。ソ連崩壊と同時にウズベキスタンは独立した。大統領のカリモフ氏は、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げた。そこには、ウズベク語、日本語、英語などで「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と書かれているという。
 中山成彬・恭子ご夫妻はウズベキスタンの日本人墓地の整備をしようと考え、日本で寄付金を募り、ウズベキスタンに行き、このお金でお墓の整備をと申し出ると、首相は直ちにこれを拒否し、「亡くなられた日本人に、自分たちは心から感謝している。このお金は受け取れません。政府が責任を持って、日本人のお墓の整備をさせてください。」 と言われたという。そして ウズベキスタンの人々は、日本人墓地10箇所を、美しい公園墓地にし日本人を顕彰してくれたという。
 中山ご夫妻は、集めた寄付金でウズベキスタンの学校に教育機材を寄付し、残ったお金で、日本人墓地と中央公園に桜の木を贈ったという。「生きて祖国に帰りたかったであろう人たちに、せめて、日本の桜を毎年、ずっと見せてあげたい」と、日本さくらの会と交渉して、桜の木を1600本寄付したという。毎年美しい花を咲かせる桜に人気が出て「桜どろぼう」が出没すると、桜を守るために、ウズベキスタンは「桜番」を雇い、桜の木の保護をしているという。
 歳をとったせいか、こういう話に弱くなった。アフガニスタンの小麦に栄光あれ、ウズベキスタンの桜に栄光あれ、そして宮崎で選挙を戦う中山成彬先生に栄光あれ。世界には、日本人の心が通じる国々と人たちがいると思えることは幸せなことだ。こうした国々を地道に応援する日本でありたい。