武藤貞一著「戦争」を読む  新鮮な発見

 武藤貞一(1892-1983年)さんという戦前、戦中、戦後に活躍された評論家がいた。彼が昭和11年(1936)に出された大ベストセラー「戦争」という本を読んでいる。戦後も西麻布にお住まいで動向社を主宰されていたことがわかっている。動向社は平成4年くらいまで本を出していることが確認できた。この方の著作評論が極めて面白く。是非全部の著作を読みたい、武藤さんのことをもっと知りたいと念願してご関係者を探している。
 戦後も多くの仕事をされた方だが、戦前・戦時中の著書名を記録しておく。「二十一世紀への道」「世界地図第百版」「戦争」「世界戦争はもう始まっている」「抗英世界戦争」「英国を撃つ」「印度」「ユダヤ人の対日攻勢」「日本革新の書」「驀進」「日支事変と次に来るもの」「皇民の書」「日ソ戦に備ふる書」「吉田松陰」「大東亜の肇造」「日本荒廃の岐路」「世界の将来」「日米十年戦争」「必勝の信念」「日本の変貌」「廃帝ニコラス」。その方の葉山の別荘はレストランに改装されていたらしいが、今はもうそれもないという。
 「戦争」という本は戦争の実情と全体像を解説し、将来起こるかもしれない戦争の惨めさと残酷さを解説した本である。そして昭和11年の日本を、「日本の今日の強みは実に戦わざるにある。隙のない軍備と国力をもちながら、じっと音なしの構えで動かぬところに底知れぬ威力がある。動いたら打ち込まれるという際どい局面である。・・・戦争の危機は断じて日本が中心ではない。じいっと我慢して見ていさえすれば、ヨーロッパの古い火薬は点火を待たずして自然爆発する。・・・私はかく思念し、かく待望することによって、厳に日本人の軽佻を警(いまし)む。」という書である。 
 以下、13章にわたって、戦争の全体像が叙述されている。古書店でしか手にいれることができないため、その内容を最初の3章について私なりに要約してみた。
 この評論家は、単なる戦前の保守派の論客ではなく、タダモノではないことは明らかだ。と同時に「こうした本がベストセラーで読まれていた戦前の日本」は、自分にとって新鮮な発見だった。

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 「戦争」
第1章 世界は踊る 
 1936年の世界では多くの戦争の火種がくすぶり始めている。ソ連は、外蒙古と新疆を抑えて支那本土で抗日戦線を形成し始めた。スペイン内戦は共産主義と右派の戦いであって領土争いではない。共産化への反動としてドイツやイタリアにも右派勢力が生まれた。このどちらもが独裁政権なのは皮肉である。
 支那におけるコミンテルンのスパイの元締めポゴモーロフの部隊が南京政府要人の反日化に注力している。ウラジオ上海連絡船で送り込まれた共産系女性記者の米人スメドレーの活躍が著しい。スペインと支那で共産化という赤色攻勢がかけられているのは世界的事実である。支那における日本人の虐殺事件は、その攻勢の具体的な結果である。逆に右派の民族派の黒色側のナチスソ連にスパイ攻勢をかけている。
 戦争の形態は進化し、戦争は、すでに国家間の領土獲得戦ではなくなっている。
第2章 戦争新風景 
 日清・日露に勝ったからと言って戦争を安易に考えるのは間違えだ。教訓となるのが英国にそそのかされて行なったシベリア出兵である。何も得るものがなかった。戦争は、もはや人と人とが戦うのではなく、機械による大量殺戮となった。日本が国命を賭して戦った日露戦争の砲弾は全部で100万発だった。11年後の1916年の欧州はフランス北部のソンム河の会戦では、英仏両軍は実に3500万発の砲弾を費やした。(軽機関銃が本格投入された戦い)肉弾3勇士は、何も日本軍だけの専売特許ではない。第一次欧州大戦の死者800万人のうち半分は肉弾400万勇士だったはずだ。語呂が悪いので無名戦士と呼ばれている。
 戦争の定義も変わった。非戦闘員が攻撃されても問題にはならないことである。技術が進歩し水平線のはるか下から打ち出される砲弾が港や都市を滅茶滅茶にする。世界各国の軍の参謀本部や作戦部で研究されているのは、国全体の防衛方法と敵国全体の壊乱方法である。それは敵国の首都機関とその国の心臓部である軍需と産業根拠地を爆滅することである。同時に無抵抗の市民の虐殺することによって戦闘力を攪乱することである。そのため焼夷弾、細菌弾、毒ガス弾の研究が注力されている。そしてそれを航空機を使って安価に投じることが可能になった。航空機がイナゴの大群のようにパリやロンドンの空に押し寄せたならば、その効果は筆舌しがたい。
 大戦の初期はまだ歩兵戦術が基本だった。例えば、歩兵戦中心のソンム会戦で英軍には初日に6万人以上の損害が出たが、415台の戦車が投入されたアミアン戦では損害は1/6となった。潜水艦から発射された魚雷で戦艦が沈没していく時代にモノを言うのは科学技術と数学的計算だ。1918年4月に21名の乗員によって7台の英国戦車がドイツ軍3個大隊を蹂躙し400名を殺したが、そのため武勇談に爽やかさはなく、機械による人間の虐殺となっている。
 燃料も石炭から石油に代わった。そのために各国政府が石油の獲得に狂奔している。1924年に米国では排日移民法が成立した。日本に耐え難い人種的侮蔑を与えたのは、関東大震災重油タンクが爆発して空になっており海軍が動けないことを米国が知っていたことも背景にある。鉄と硝石、綿花、石炭と石油などがなければ、戦さはできないのである。戦争の要素として必要な石油は、国によって産出の度が異なり、自国の領土で自給自足できるのは、世界の生産高の7割を占めるアメリカと、これに次ぐ英国とソ連だけで、ドイツもフランスもイタリーも外国から輸入しなければならない。英米の油田争奪戦はペルシア(イラン)、メソポタミヤ(湾岸諸国)、蘭領印度(インドネシア)、南米各地で続けられ、一時はメキシコの政権まで左右したことは有名である。世界の石油は、スタンダードオイルとロイヤルダッチシェルとアングロペルシャの3大会社が独占し、それにソ連が加わった形である。日本は仮想敵国の米国、ソ連から石油を買っているのでその苦心は並大抵ではない。そのほかの地域から石油を買うために海軍は特殊な輸送船を作っているほどである。つまり石油あっての戦争なのである。
 更に時代は進み、武器が電気によって動かされ、無線によって操縦される時代が来ることである。火薬の原料は、チリ硝石ではなく電気分解によって、空中の窒素と水中の水素から合成される。エンジンが電気によって動かされ、強力な炸裂弾が電気で打ち込まれる時代になるのではないか。軍艦や飛行機の無線操縦の実験が盛んだ。そう考えると石油から電気に代わる流れができつつあるのではないか。無線操縦の飛行機が完成すれば、ボタン一つ押しただけで数百の爆弾が落ちてくる時代になるのである。「・・・戦争には昔は体力が尊ばれたが、今は機械力だ。だから力のある若い者は、これからの戦争に必要ではない。わしのように七十、八十という老い先短い老人共が戦争に出ることにすれば良い。・・・」とバーナード・ショーが東京でうそぶいたのは1934年3月だった。
第3章 白人のオウ殺作業(オウ;金の上に鹿と書く、「皆殺し」の意)
 ドイツは、自国の成年男子161万人を殺し、368万人を傷つけ、77万人を敵国捕虜と行方不明者にしたあげく、1918年8月8日皇帝が停戦を宣言した。1919年4月ドイツの講和全権ブルックドルフ伯爵は「・・・ドイツ国民は防御的に戦争を遂行したに過ぎないと今でも確信している」とフランスのクレマンソーに語った。
 アインシュタインは1922年4月「これが戦争だ。戦争がいかに醜悪無残であるかを知らせるためにドイツの全学生を、否、世界中の学生を、このドールマンの廃墟に連れてくる必要がある」と語った。
 戦争の惨害と戦場の荒涼は著しい。日本にも応仁の乱があり、ドイツには30年戦争があった。戦争になると人間は鬼畜になる。日本海海戦の敗戦後の遁走で、ロシアのバルチック艦隊は船を軽くするために負傷兵を片っ端から海に投げ込んだ。日本でも、徳川家康は長子を殺し、秀吉は甥の養子を虐殺した。源義朝は父親を殺した。人を殺すのが戦争である。
 ドイツは米国を講和あっせんに誘導するために、潜水艦による船舶無警告撃沈を始めた。戦争を早く終わらせるための政略的意図として残忍であることが必要だと考えていたが、そのことは相手の敵愾心を煽り、米国の参戦を招いた。
 欧州大戦では6000万人が動員され800万人が殺されたが、それは戦闘員の数であり、そのほかに軍隊に直接殺された民間人は10万人、間接的な原因で死んだ民間人は909万人とされている。ロシアの損害は最も多く170万人の兵士が亡くなり、500万人が負傷した。それだけなくなれば革命も起きる。
 チフス、ペスト、赤痢の犠牲者が出るのも戦争である。欧州大戦では各国とも衛生管理に留意したが、それでもオーストリア軍ではコレラで15千人の死者が出た。欧州に上陸した米軍ではたちまち17千人が病死した。銃後の戦闘員は飢えに苦しんだ。物価は極度に高騰した。ぺテルスブルグの人口は開戦から2年足らずで、人口が150万人から300万人に増えたが鉄道能力はそれに追いつかず、食料と燃料が払底し、ロシアでは帝政が廃止された。