歴史としての戦争と虐殺 

1.歴史問題と平和の毒
 飛ばし読みしていたこともあり、ビル・エモット氏の「アジア三国志」(日本経済新聞社2008年)の7章の歴史問題を中心に読み直した。「アジアはひとつであるにせよこの地域の歴史的分裂はそれよりさらに深刻な意味を持つようになる。この分裂には様々な原因があるが、まず第一は歴史そのものである。歴史は傷みや不信の源であり、未解決の争いの源でもある。」とあった。大好きな著者の一人だが、はたしてそうだろうか。次の8章では、アジアにはわかっているだけで大国が介在する武力衝突が起きてもおかしくないところが5つあるとし、それは中印国境チベット朝鮮半島東シナ海尖閣諸島、台湾、パキスタンだという。この時点から既に東シナ海尖閣諸島は発火点だと認識していたようだ。目次だけ見ても「3章中国」の副題は、「世界の中心の国、問題の中心」と何回読み返しても上手い。アフリカでも、アイスランドでも、南シナ海でも、ミャンマーでもニュースの一方の中心は中国である。
 7章の歴史問題の記述は、ハルビンの第731部隊罪証陳列館から始まる。南京の戦争博物館、盧溝橋の中国人民抗日戦争記念館、靖国神社などについて、内外の文献も踏まえた被害の数字の評価などについてバランスのとれた叙述が続く。しかし遊就館の展示の説明に入ると、彼の怒りを抑えきれなくなる。第731部隊や細菌戦については全く触れてないこと。南京事件は少ししか言及されてないこと。何万人もの慰安婦の問題、朝鮮人と台湾人を強制労働に使ったことについて何も説明がないこと。フィリピンのバターン死の行進や、連合軍とアジア人捕虜の死亡率が高かったことについても説明がないと批判する。そして英国人捕虜が多数亡くなった泰緬鉄道の機関車が入口の真正面に展示されていることには怒りを顕にする。そして遊就館は罪を償う目的の博物館ではなく、歴史の修正を目的にした博物館だと断罪する。現在の遊就館の展示がどうなっているのかわからないので、何も言えない。

 そのあと、教科書検定での中国、韓国とのトラブルに触れ、韓国の元外相で駐米大使だった韓昇洲氏の言葉ととともに「首相が靖国神社を参拝し、戦時中の残虐行為を閣僚が否定しているために、謝罪の真意が相手に疑われているのがわからないのだろうか」と日本を批判している。
 ただ続いて、東京裁判の不公正さと問題点を列挙し、そのために日本の謝罪に真剣みが欠けているのではないかとの見方を示しバランスをとっているようである。

 そして話は韓国の反日感情竹島問題、ソウルの戦争博物館の展示内容の評価に移る。日韓関係は日中関係ほど悪くないが、教科書問題、靖国参拝慰安婦問題を中心にまだかなりしこりが残っていること、大統領によって日本との親密さには盛衰があること、竹島の領有問題、中国との国境問題として多くの朝鮮族が住む吉林省の間島地域の帰属問題と高句麗論争の関係について述べている。そして北朝鮮の崩壊、南北が統一される時、中国、米国、朝鮮、日本はきわどい選択に直面し、それぞれの利害が衝突すると予測している。
 歴史の専門家ではないものの、バランス感覚と調査分析能力に優れている英国人にして、こう見ているのかと知り、正直に言って少しショックな部分もあった。反論できることは幾つもあるにしても、それを以て反省不十分とされるのは不本意だ。日本の立場を全面的に擁護する気など全くない。確かに残虐な行為はあった。
 ただ少なくとも次の2点は彼の認識に付け加えたいと考えた。1点目は第二次大戦前のアジアの国々の植民地支配の現実とその後の独立の経緯である。2点目は、中国、韓国、そして北朝鮮においては現在もネーションビルディングのために反日感情を利用している部分があるという事実である。
 対応の巧拙は別にして、日本の政治指導者は後者の問題で苦労してきた。  「過去のことで言い争いを避けたい、相手が豊かになればわかってくれる」という政治の判断や妥協の積み重ねが、かえって誤解を拡大してきたと思う。対外的には、時間がかかっても、感情に流されることなく、この現実に向き合っていかなければならない。それは今迄のように、統一した歴史教科書を作ろうという考え方ではなく、この国の教科書はこう記述していて、別の国の教科書ではこう記述しているという事実を、まず多くの人々が知らせることではないだろうか。それはアジアでこの国の国民が生きていくために必要な知識である。
 良く考えてみると、多くの日本人は、1926年から1952年(昭和元年から昭和27年)の間の事件と歴史、日本軍の戦闘や行動について、ほとんど教えられていないため、何のことかわからないまま、ひたすら謝罪と反省を続けさせらてきたように思われる。
 これは占領下の日本において「焚書坑儒」に匹敵する情報統制が行われ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、憲法9条を唱えていれば平和が来る」という建前を半ば強制され、半ば口実にして、経済成長にむけて全力を傾けてきたというのが昭和の後半の歴史だからである。
 しかし国は豊かになったものの、政治の指導層にまで、平和の毒がまわってしまった。その結果、安全保障がぐらつき、多くの国民がこのままでは危ないと考えだした。一般の社会においても、ようやく、きちんと現実を見据えた安全保障論や戦争論、インテリジェンス論が語られだしたのは、つい最近のことである。

2.戦争と虐殺の世紀
 3月11日の東日本大震災では2万人が亡くなった。多くは洪水にやられた。国民の多くは衝撃を受けたし、今も受けている。その前までは、第二次大戦が終わってから、最も多くの方が亡くなったのは1995年1月の阪神淡路大震災の6400人だった。そのほとんどは家屋の倒壊が原因だった。何回か前のブログに自衛隊南スーダンPKOのことを書いたが、南北分離前のスーダン西部のダルフール紛争では、2003年から2010年の7月までに、40万人が亡くなったという。先月も多くの人が爆撃で亡くなった。いくら首都周辺は安全だと言われても、全く安心できないのである。重ねて、きちんとした武器と交戦規程の付与、緊急時の離脱方法への備えをお願いしたい。
 「20世紀は、戦争と虐殺の世紀だった」といえるそうだ。戦争犯罪は加害者にとって触れたくない体験であり、タブーとされてきた事件がたくさんあるという。それはその国の後の世代の人間にとってもそうだろう。2002年に秦郁彦先生、佐瀬昌盛先生、常石敬一先生が「世界戦争犯罪辞典」(文芸春秋社)を出版された。その後の座談会の様子が「現代史の対決」(秦郁彦著、文芸春秋社)という本に纏められている。そこに戦争犯罪ワースト20の表があった。それには、日本軍の犯罪として、南京虐殺事件が出てくる。またシンガポール華僑虐殺事件が出ている。この事件については初めて知った。反対に日本が被害者となった事件も3つある。

戦争犯罪と考えられるもの      年代         犠牲者数推定
 アボリジニ狩り        19世紀初め‐20世紀初頭   数百万人
(豪州入植者→アボリジニ かつて500-600万人で、現在30万人)
 
 アルメニア人大量虐殺       1915年         約150万人
(トルコ→アルメニア オスマントルコ内には200万人いた)


 南京大虐殺            1937年12月       数万人
(日本→中国)
 
 カチンの森事件          1940年4月    約4400人
ソ連ポーランド)  同時期に処刑されたポーランド人 2万5000人
 
 バビー・ヤールにおけるユダヤ人虐殺 1941年9月     約3万3000人 
ナチスウクライナの独協力派→ユダヤ人) 
 
 ヤセノヴァツの集団虐殺      1941年-1942年8月  30万―70万人
クロアチア独立国セルビア人)
 
 シンガポール華僑の虐殺事件    1942年2月       6000-2万人
(日本軍→華僑 占領直後に敵性華僑を裁判なしで処刑した事件)
 
 アウシュビッツ      1942年2月‐1944年12月   最低でも110万人
(ドイツ→主としてユダヤ人)    収容所6か所合計で500万人以上 
  
 ドレスデン爆撃          1945年2月       3万5000人
英米空軍→ドイツ)
 
 東京大空襲            1945年3月       約8万人
アメリカ→日本)
 
 広島、長崎の原爆         1945年8月      広島 約14万人
東京裁判の結果に異議を唱えないと講和条約で約す)  長粼 約7万人
 
 ソ連による日本兵シベリア抑留 1945年8月‐1956年12月 約6万1000人
ソ連→日本 61万人がシベリアで抑留された)
 
 台湾 2.28事件         1947年2-3月      約2万8000人
(国民党政権→台湾人 最近までこの事実は伏せられていた)
 
 アルジェリアフランス軍の暴行  1954年-1962年     15万人
(フランス治安部隊→アルジェリア)      
 
 インドネシア 9.30事件    1965年9月-1966年2月  45万人-50万人
スハルト戦略予備軍など→インドネシア共産党
 
 東チモール独立弾圧        1975年        2000人
インドネシア東チモール)           (22年間で20万人)
 
 ポル・ポト政権の大虐殺     1975年-1979年    約150万-170万人
ポル・ポト政権→カンボジア人 当時の人口の2-3割の知識階級を処刑)
 
 ルワンダ共和国の大虐殺      1994年4月-7月    約100万人
フツ族ツチ族
 
 スレブレニツアの虐殺       1995年7月      7000人
(ムラジッチのボスニアセルビア人→ボスニアムスリム ユーゴ内戦)
 
 アルカイダの対米同時多発テロ   2001年9月11日    3000人以上
アルカイダアメリカ)


*その他の事例
 スロベニアの粛清         第二次大戦後    30万人以上
(チトー派→ドイツ人、イタリア人、クロアチア人、反対派)
 
 スペインのゲルニカ爆撃      1937年4月     1654人
(ドイツ空軍→スペイン)
 
 重慶戦略爆撃       1938年12月-1941年9月   約1万2000人   
(日本軍→中国 東京大空襲のモデルとなったといわれている)
 
 サダム・フセイン化学兵器使用  1988年3月     3000-5000人
(イラク政府軍→クルド人)
 
 難民輸送船 W・グストロフ号事件  1945年1月      5400人
ソ連潜水艦→ドイツ人避難民5000人ドイツ兵1100人が乗った船)
 
 済州島暴動 4.3事件        1948年4月      6万人
(韓国政府・右翼→島民の粛清 島民の20%)

** 戦争犯罪ではないが独裁者による自国民の犠牲者数 
  スターリン 6200万人
  毛沢東   2600万人
  レーニン  450万人
  中国のチベット弾圧 120万人(亡命チベット政府の発表)

 20世紀の前半までは、主として大国間、列強同士の戦いだった。冷戦期も同様である。しかしポスト冷戦期においては超大国と途上国の争いになり、格違いの戦争となった。そうなると弱者の側はゲリラ的な攻め方をするようになり、自爆テロに至っては10代の子供が実行部隊に含まれるようになった。さらに言えば、以上のことはまだ事実の一部であり、アジア、中東、中南米、アフリカといった地域での実態がはっきりするには時間がかかる。