李承晩時代 作られた反日感情

1.韓国の近現代史を学ぶこと
 日本が1945年8月15日の戦争に負けた後、朝鮮がどうなったのかについて、またその前の植民地統治がどうだったのかについて、歴史の授業として日本ではほとんど教えられていない。
 だからなぜ反日感情が生じたのか、ほとんどの日本人には理解できない。植民地統治の問題は東京裁判史観にかかわる問題であり、戦後の現代史は、生々し過ぎて政治問題化しやすいことも、学校では教えにくい要因だった。しかし自国の歴史と同様に周辺国の現代史を知ることが、適切な国際関係を築いていく基礎となる。
 今までは、ともすると相手の非難や不満に対し、安易な謝罪や根拠のない談話を発表することによって、一時的にしのぐことを良しとする風潮が主流を占めてきたのではないか。それは、日本においても賠償利権や謝罪利権を追求する人たちの温床となっていた。
 安易な謝罪は根本的な和解と相互理解を産み出すに至っていない。個人的には李承晩時代の歴史の清算を求めるしか解決策はないのだと思えてならない。
2.日本の植民地統治
 韓国では、日本の植民地統治は、搾取、差別、掠奪、虐殺、放火、婦女暴行が横行し人類史上最悪だったことになっている。しかし自国びいきを割り引いても、それが事実だとはとても思えない。日清戦争の結果、日本領となった台湾は20年後には財政的に自立した。朝鮮統治は35年間だが、とうとう最後まで財政的には日本からの持ち出しだった。日韓基本条約の時も、日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した。放棄された在韓日本資産の総額は52-53億ドルだった。
 朝鮮統治に関する事実関係を拾ってみる。日清戦争後の1895年の下関条約の第一条は「清国は朝鮮の独立を承認する」となっている。これで朝鮮はようやく独立国となった。日露戦争の結果、1905年11月に大韓帝国大日本帝国保護国となった。1909年に戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった白丁を始めとする賤民にも姓を許可し身分差別を撤廃した。身分解放された白丁も学校に通えることになった。1910年から1919年の間に土地調査が行われ土地の所有権を確定した。そして日本内地に準じた学校教育制度が整備された。小学校も統合直前の100校から4271校に増加した。ハングルは必修科目となり、識字率は1910年の10%から1936年には65%に上昇した。近代医学医療制度が導入され厳しい防疫検疫体制がとられ、コレラ、ペスト、天然痘の流行が1920年にはなくなった。乳児死亡率が大幅に低下した。そのため人口が35年間で倍増した。
3.大韓民国の成立と李承晩時代
(1)李承晩(りしょうばん、イ・スンマン、1875年 - 1965年)
 大韓民国初代大統領となった李承晩は、400年ほど前に李朝王家からわかれた黄海道の没落両班階級の出身で、科挙を目指していたという。科挙の試験が無くなると通訳養成所に入り語学を学び開化派のホープとして注目された。しかし政府の方針が変わると逮捕され1904年まで獄中で拷問された。日露戦争の勃発によって再度方針が変わり、語学が得意な青年は米国に派遣され李朝に援助を得るための活動に従事した。目的は果たせなかったが、そのまま米国にとどまり苦学してジョージワシントン大、ハーバード大を経てプリンストン大で博士号を取得した。1910年、キリスト教布教のために日韓併合後の韓国に戻ったが1年足らずで米国に戻った。この数ヵ月が李承晩の植民地経験だった。李承晩は有名だったが、ずっと不遇だった。ホノルルの学校職員として勤務する傍ら、朝鮮独立運動に携わった。しかし独立運動は内部対立が激しく歴史の主流になることはなかった。
(2)大韓民国の成立
 第二次世界大戦末期、ソ連軍は満州朝鮮半島北部に侵攻した。米国はソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案し北緯38度線を境にすることになった。朝鮮の「解放」は、自ら勝ち取ったものではなかった。独立を目指す諸潮流のいずれも主導権をとることができなかった。1945年10月に李承晩は米国占領下の韓国に帰った。70歳だった。海外にいたため何の地盤も財産もなかったが、看板としては申し分ないと各派から思われていた。しかし李承晩は枯れてはおらず権力闘争が得意だった。「韓国独立のためには米国との協調が必要」との考え方から米国軍政が最も嫌った左派の排除に成功した。1948年5月に総選挙で多数を制し、当初は議院内閣制となるはずだった憲法を、大統領中心制へ変えさせた。そして日本の敗戦から3年後の1948年8月15日、米国の後押しで大韓民国が建国され、73歳の李承晩は初代大統領になった。
 しかし国造りは大いに混乱した。この混乱を観察した米国の外交官は後に学者となるが、「日本による植民地統治の歴史は、朝鮮の伝統的政治意識・構造を変えることがなかった」と記述した。この言葉が韓国史を学ぶたびに頭の中で繰り返される。
(3)朝鮮戦争とその後
 1950年6月、米国が韓国を防衛圏に含めないと発言すると、北朝鮮は直ちに圧倒的な戦力で南に攻め込んできた。朝鮮戦争の勃発である。韓国軍は瞬く間に総崩れになり、ソウルは陥落し釜山まで引くことになった。戦争は朝鮮半島を舞台に3年間続き、東西冷戦下の代理戦争の様相を呈していた。一方の主役は米国主導の国連軍であり、他方はソ連の武器で武装した義勇軍という名の中国人民軍だった。仁川上陸作戦の後、戦線が膠着すると、1953年、国連主導による休戦提案が出始めて、両軍は捕虜送還協定を締結した。しかし李承晩は納得せず、北の捕虜2万5000人を送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こした。正式に決まった協定を反故にする暴挙に、国際世論の非難が高まった。彼は実行力はないものの尊大で強引な独裁者であり、朝鮮戦争中の議会でも、自らの延命をはかるための政争を続けていた。こうした中で7月27日に朝鮮戦争は休戦した。その後も李承晩は米国議会に出向き、北進統一を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は誰もいなかった。
 しかし韓国内では独裁者だった。当時の憲法では、大統領は三選は出来ないことになっていたが三選した。李承晩は、策略を駆使し政敵を倒し、憲法を変えた。1960年3月の四選目の大統領選挙にも当選した。しかし選挙の不正が特に酷かった地域からデモが始まり、それが全国に広がり4.15学生革命となった。李承晩はハワイに亡命し5年後の1965年にその地で亡くなった。
(4)保導連盟事件済州島四・三事件 
 李承晩時代は1948年から1960年まで12年間続いた。1948年12月に国家保安法が制定され要監視対象者の教化と統制をおこなう組織が全国に置かれた。抗日勢力の主流は共産主義者だったからだと言われている。というのは韓国の民族主義者は旧朝鮮総督府統治機構に組み込まれていたからだ。韓国成立直後は、当然ながら、日本の植民地統治の現実を具体的に知っている国民が大多数だったが、公の場で「日帝時代はよかった」「今の政府は駄目だ」等の批判をした者はすべて政治犯として投獄・拷問・処刑された。建国後2年間に投獄された者の総数は日本統治時代の投獄者数を超えたという。政権基盤の脆弱だが、権威主義的だった李承晩は、自己正当化の論理が強かった。「対馬も韓国領土」「沖縄は韓国固有の領土である」などと発言していた。
 1950年6月の朝鮮戦争が勃発し、北朝鮮がソウルに迫ると大統領命令によって韓国国軍や韓国警察が、共産主義からの転向者やその家族、収監されている政治犯や民間人を虐殺したとされる。北が侵攻していない非戦闘地域の釜山などの刑務所などでも市民や囚人が虐殺された。これを保導連盟事件という。少なくとも20万人あまりが犠牲になったとされる。李承晩大統領が失脚した直後に遺族の申告をもと作成された報告書では114万人、韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」でも少なくとも10万人以上の人々を殺害され排水溝や炭鉱や海に遺棄されたとされている。韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。朝鮮日報は、2007年3月の社説で「過去史委員会による壮大な予算の無駄遣い」と題し、保導連盟事件の調査を税金の無駄使いとして非難し、真相究明への否定的な考えだという。今もってタブーとされているのだろう。
 (*)実はこの20万人という人数が、米国で韓国系の団体が「日本軍が20万人を超える少女らを性奴隷にするために拉致した」という数字となぜか一致している。南京事件の数字の作り方と似ているとだけ指摘しておく。

 同時期に起きたのが、済州島四・三事件(よんさんじけん)である。政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察・右翼団体によって島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺され、済州島の村々の70%が焼かれた。海上に投棄された遺骸の一部は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている。
 韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民の一部は大阪にコミュニティーを建設した。済州島では1948年に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。
(5)国民防衛軍事件と李承晩ラインの設定そして竹島占領 
 朝鮮戦争の際にも「釜山が陥落したら、福岡に亡命政府を置く」などと主張して、幾度となくマッカーサーから叱責されたと言われている。サンフランシスコ講和会議にも戦勝国として参加しようととしたが連合国に拒否された。ラスク書簡においては竹島は韓国のものではないとはっきり通告されていた。朝鮮戦争中の1951年1月に、国民防衛軍事件が起きた。韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが、国民防衛軍に供給された軍事物資や兵糧米などを横領し9万名の韓国軍兵士が餓死した事件である。この事件は国会で暴露され、真相調査団が設置された。調査の結果、人員数の水増し報告により国庫金23億ウォン、糧穀5万2000石が着服・横領され、食料品費の計上額と実際の執行額・調達額の差が約20億ウォンに上ることが明らかとなった。また、着服金の一部が政治資金として使われた。副大統領と、事件の黒幕と見られた国防部長官が辞任した。これに対し軍部と国民の不満が高まると、李承晩は、1952年1月18日に米国等の国際的な反対を押し切り、李承晩ラインを一方的に宣言し、竹島の不法占拠を開始した。サンフランシスコ講和条約は調印されてはいたが発効していなかった。つまり李承晩ラインの設定自体が、国内の不満をそらすための方策だった。つまり竹島自体が反日感情をあおるための手段だった。
 李承晩ラインを越えて操業していた日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり、韓国による銃撃によってわかっているだけでも44人の死傷者を出している。
(6)李承晩時代の経済
 李承晩時代の韓国は世界の最貧国のひとつに数えられていた。貧しい財政基盤ではアメリカの後ろ盾や援助なしには国の運営もままならなかった。朝鮮戦争後、米国に見放された後は、彼には経済の運営ができなかった。李承晩政権時代の主要産業は米国の経済支援に依存した製粉・精糖・紡績業だった。1957年には経済成長率は8.7%に達したものの、不況になると過剰設備が顕在化した。一人当たりのGNPは80ドル前後だったという。李承晩政権は日本との国交正常化には消極的だったが、政権運営は、旧植民地官僚に支えられていた。今日の韓国の教科書でも「李承晩政権は反共に徹するあまり親日派の処分が不十分であった」といった趣旨が記述されているという。
(7)難民としての在日韓国人
 在日韓国・朝鮮人は、日本に定住し外国人登録している者は54万人、うち特別永住者は39万人とされる。うち北の総連系の人は3-4万人とみられている。1959年に日本政府が発表し2010年に再確認された資料では、当時の在日総数61万人のうち徴用労務者は245人で、日本に居住している者の大半は自由意思によって残留したとみられている。日本国籍を取得した人は累計で30万人。朝鮮系という出自を言明する者が少なく本人も日本人と自認する場合がほとんどだった。在日1世の出身地はほとんどが韓国で、17%が済州島出身だという。歴史的に流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに来て定住する人々もいた。戦後韓国に戻った人も、李承晩時代に済州島から逃げて日本に密入国した人もいるようだ。戦前の日本には、200万人の朝鮮半島出身者が住んでいたが、140万人が終戦直後に帰国した。帰らなかった人たちは戦後の混乱で財産を作った人達に加えて、階級意識の強い韓国で差別をうけていた人や身の危険を感じた人々が多い。その意味では難民と考えることも可能ではないだろうか。