国見の「ちから」

 本居宣長の「うい山ぶみ」を読んで、古事記万葉集に興味を持った。もとより目的があってのことではないが、心惹かれる文章と歌があった。
 古事記の下巻は仁徳天皇の事績から始まる。大雀命(おほさざきのみこと)、難波の高津宮にましまして、天下(あめのした)治めたまひき。(中略)又、秦人をえたちて茨田(まむた)の堤、又、茨田の三宅(みやけ)を作り、又、丸邇(わに)の池、依網(よさみ)の池を作り、又、難波の堀江を掘りて海に通し、又、小橋の江を掘り、又、墨江の津を定めたまひき。
 是(ここ)に天皇(すめらみこと)高い山に登りて四方の国を見たまひて詔りたまはく、「国中(くぬち)に烟(けぶり)たたず。国皆貧窮(くにみなまづ)し。故(かれ)、今より三年(みとせ)になるまで、悉く、人民(おほみたから)の課(みつぎ)・役(えたち)を除(や)めよ」とのりたまひき。ここをもちて大殿は破れ壊れ、ことごとに雨漏れど修理(つくろ)ひたまはず、■[木+咸:ひ]をもちて其の漏る雨を受けて、漏らざる處に遷り避けたまひき。後に国中を見たまへば、国に烟滿ちたり。故、人民富めりと為ほして、今はと課・役を科(おほ)せたまひき。是を以ちて百姓(おおみたから)榮かえて。役使に苦しまざりき。故、其の御世を称えて聖帝(ひじりのみかど)の世(みよ)と謂(まを)す。
 万葉集も、古くは16代の仁徳天皇の代からの歌が収録され、雄略天皇の「籠もよ、み籠もち・・」の歌で始まる。2番目が、推古天皇の後の7世紀前半の舒明天皇が香具山に登りて望国(くにみ)したまうときの御製歌(おおみうた)である。仁徳天皇から3百年後のことである。
 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜■(忄+可)國曽 蜻嶋 八間跡能國(大和には、群山あれど、とりよろふ、天の香具山、登り立ち、国見をすれば、国原(くにはら)は、煙立ち立つ、海原は、鴎(かまめ)立ち立つ、うまし国そ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は)
 人民、百姓をともに「おほみたから」と読む。古代において、「大御田の田子等」のことを指し、瑞穂国の農民を意味したが、後、臣民全般を「大御宝」と考える大御心をいう。
 個人的には、舎人皇子の「大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里(ますらをや片恋せむと嘆けども醜(しこ)のますらをなほ恋ひにけり)」の青春の相聞歌、大伴旅人が亡き妻をしのんで歌う「鞆浦之 礒之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方(鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも」という挽歌にも心惹かれる。
 角麻呂の「清江乃 木笶松原 遠神 我王之 幸行處(住吉(すみのえ)の岸の松原遠つ神我が大君の幸(いでま)しところ」や、上野の国司に赴任する田口大夫が作った「廬原乃 浄見乃埼乃 見穂之浦乃 寛見乍 物念毛奈信(廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし)」の歌はあたかも旅行案内のようだ。
 山部赤人の「田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留(田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける)」という反歌もあるが、その前の「天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者(天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は)」という歌も良い。古事記万葉集ができたのは8世紀だが、今に通ずる「ちから」がある。