南北朝鮮のこと 正しい歴史認識

1.韓国の大統領選挙が終わった。
 朴槿恵氏が韓国大統領に選ばれた。最終的な候補者討論会で言い負かされて、保守派が国家存続の危機を感じて、投票率を上げたという見方がある。日本のメディアは経済の格差是正が韓国民の関心事だったと報じていた。しかしそれは事実ではあっても真実ではないと思う。どちらも格差是正を論じていたからである。政策で根本的に違っていたのは、北との関係だった。文在寅候補は、連邦制と南北経済連合を主張し、国家保安法の廃止を主張していた。そのため、これに反対する保守派は大韓民国の今後60年のシステムが決まると言って一生懸命だった。
2.日韓関係の修復と竹島の日
 朴槿恵氏は、「正しい歴史認識を土台に、北東アジアの和解、協力が拡大するよう努力する。日本との協力は非常に重要。独島は韓国固有の領土であり、協議の対象にならない。慰安婦問題はどのようにしても合理化できない」と述べていた。
 はたしてそれで済むのだろうか。日本の民主党政府は、米国に止められて竹島についての国際司法裁判所への単独提訴をやめてしまった。きっちりしろと言いたい。通貨スワップ枠は要望がなかったからやめたという説明だった。だから何一つ制裁措置をとっていない。親韓派に言わせると、2月25日の韓国大統領就任式に日本の首相が出席するかどうかが、日韓関係の修復のシンボルらしい。どうして日本大使館の前に、慰安婦像を置くような無礼な国へ行く必要があるのだろうか。
 しかもその3日前の2月22日は、島根県竹島の日である。別に喧嘩はする必要はないが、歴史をきちんと認識するために、首相は、竹島の日の式典に出て、竹島と李承晩ラインの歴史を学ぶ日とすべきだと思う。李承晩ラインでは、13年間に、日本人は、3929人が抑留され、44人の死傷者が出ている。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならなかった。この抑留者の返還と引き換えに、日本政府は何を認めたのかを、歴史の現実として事実を学ぶべきだと思う。ウィキペディアにも出ている、国会議員でも知らない人が多いと思う。
3.朴正煕大統領の歴史認識
 朴槿恵氏の父上の朴正煕大統領(1917-1979年)は、お会いしたことはないが、いろいろな文献を読めば読むほど、人物だったと思えてならない。漢江の奇跡を成し遂げ、あれほど長く開発独裁を続けながら子孫に財産を残さず、親戚を重用しなかった人物は珍しい。日本との関係を真剣に考えていたとされ、竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めてしまえ」と発言したとも言われている。
 韓国の歴史は、李承晩と朴正煕という二人の大統領を研究すると良く見えてくるのではないかというのが、自分の現在の仮説である。以下は朴正煕大統領の言葉である。こんな考え方をする人たちが増えてくれば、逆に、日本も安閑としていられない。
(1)日韓併合は自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、・・・セコンド・ベストとして私は評価もしている。
(2)大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。・・・その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よくできるな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。首席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な水準の高い政策をやったと思う
(3)第一に我々の歴史は始めから終わりまで他人に押され、 それに寄りかかって生きてきた歴史である。・・・遂に大韓帝国が終幕を告げるまで、 この国の歴史は平安な日がなく、外国勢力の弾圧と征服の反覆のもとに辛うじて生活とはいえない生存を延長してきた。
(4)嘆かわしいことは、この長い受難の歴程の中でただの一度も形勢を逆転させ、外へ進み出て国家の実力を示したことがないということである。そして、このような侵略は半島の地域的な運命とか、我々の力不足のため起こったのではなく、ほとんどが我々が招き入れたようなものとなっている。・・・自らを弱者とみなし他を強大視する卑怯で事大的な思想、この宿弊、この悪い遺産を拒否し抜本せずには自主や発展は期待することはできないであろう。
(5)第二に、我々の祖先は比較的活発で男性的な気質があったけれども、李朝に入ってから次第にこういう気象は姿を消すことになった。仏教から儒教へと文物の制度が変わってくるにつれ、それは急激に民族自主的な気概を蝕むことになった。党派争いが実にささいなことから始まった。・・・李朝は結局、この党派の争に明け暮れているうち、亡国の悲運を味合うことになった。言葉では先頭をゆき、行動では最後につきながら、論争や派閥争いといえば夢中になるこの悪い遺伝を、我々はもう拒否すべぎときがきたのではないか。
4.北のミサイルと政情不安
 このミサイル発射実験は成功しミサイルの射程はかなり延びた。これまでの6者協議とはなんだったのか、正しい歴史認識が問われている。実は、それ以上に気になることが報道されている。ミサイルの成功とは裏腹に、北朝鮮の政情は不安定度を増しているのではないかという推測である。
 1年前の総書記の葬儀のときの車を囲んだ軍の幹部が、4月ころから次々と引退・降格させられている。加えて、朝鮮人民軍の資金源とされる勝利貿易とカンソン貿易が、朝鮮労働党のテソン貿易に統合された。先軍政治の過程で軍に与えてきた利権を党に戻したのである。無煙炭や金などを中国に輸出し、軍に必要な資金を供給してきた企業だという。
 もともと鉱物資源の賦存量からみると北と南では、北のほうが段違いに裕福だった。第二次大戦前は、工業も北に立地していた。そのため朝鮮半島の金持ちは皆、北朝鮮に住んでいたといわれている。
 「配給制が事実上崩壊している状況で、北朝鮮軍部は独自に利権を握り、 足りない資金を確保してきた。この資金源を突然奪ってしまうと、軍の維持に問題が生じるのは避けられない」という。内情は誰が考えても火の車なのだろう。従来の解説では、金正日が死亡してから、数千名の中国の工作員北朝鮮に入りこみ、北朝鮮の安定化工作を続けているという。それをバックに軍の押さえ込みを図ったといわれているようだ。
 金正恩の身辺で不穏な動きがあったのか、通常であれば、全国民の忠誠を得るため、全国を回らなければならないときに、9月以降は平壌にとどまり、しかも視察の対象は、遊園地や産科病院、騎馬訓練場、それにモランボン楽団公演、サッカー試合と警備・警護担当機関が続いているという。その代わりに、82歳の崔永林首相は工業と農業、崔龍海人民軍総政治局長と張成沢国防委員会副委員長が軍を担当しているという。側近たちは第一書記には深刻で重要な懸案を任せられないのだろう。この秋から、官邸や別荘に装甲車100台が配備され、警護態勢が一段と強化されたという。