熊本、蘇峰、国史より観たる皇室

 熊本は、維新十傑の一人といわれる国是三論を書き、幕末に、その先見性で尊敬された横井小楠(しょうなん)が生まれた土地だ。明治国家の法律的基礎を固めた井上毅(いのうえこわし)さんも熊本出身だ。その井上さんと一緒に教育勅語を検討したのが、だいぶ年上だが、天皇の側に仕えて学問を教授する侍読だった元田永孚(もとだながざね)さんも熊本出身だ。大隈重信先生は佐賀の出身だし、福沢諭吉先生は、たしか大分中津藩の大阪蔵屋敷の生まれだ。東海大学松前重義先生も熊本出身だった。
 来年の大河ドラマの主人公は、同志社新島襄先生の奥さんの八重さんだ。新島先生は東京神田の上州安中藩江戸屋敷で生まれた。八重さんは会津の出身だ。維新の時には会津鶴ヶ城で夫と離縁して官軍と戦った女丈夫だ。日清、日露の戦争では篤志看護婦に志願したという。50歳、60歳の時のことだ。八重さんのお兄さんは、会津出身ながら、明治政府の要人からも一目置かれた山本覚馬という人で、明治となってから、京都府の顧問として、京都府議会や商工会議所で活躍した人物らしい。同志社の開校当初からの理解者だった。そんなこともあってお二人は結婚された。覚馬の娘のみねが1891年に横井小楠の長男と結婚すると、横井小楠のお弟子さんたちが同志社の運営に加わったという。熊本洋学校出身の一団だ。横井小楠の高弟の子供が、徳富蘇峰・蘆花の兄弟で、ともに同志社で学んだことがあるはずだ。彼らの母親は、「肥後の猛婦」とも「賢婦人」と呼ばれた4姉妹の一人だった。その4姉妹には熊本女学校の先生や東京の女子学院の矢嶋楫子(やじまかじこ)先生がいる。近寄りがたい怖いオバサンたちのようにも見えるが、その幾つかのエピソードから見ると、厳しさの陰に、優しさと情の深さがあるように思えてならない。肥後や会津には、どうも、そんな人たちが育つ秘密があるらしい。

 徳富蘇峰(1863-1957年)はそんな人たちに囲まれて育った人だ。「国史より観たる皇室」は町の図書館で見つけた1冊だ。昭和28年に神戸の湊川神社の藤巻正行宮司が自らの77歳の祝いに熱海の伊豆山に住んでいた徳富蘇峰のもとを訪ねて出版許可をもらった本だという。藤巻宮司がそれを全国の図書館に寄付した。徳富蘇峰が、敗戦後の昭和21年3月11日から29日にかけて、国体の変更なきを祈って書き上げた原稿だという。頁数にして78頁。本は古くヤケていた。
 織田信長から西南戦争までを描いた蘇峰のライフワーク「近世日本国民史」(全百巻)を書き始めたのが55歳となった1918年で、書き終えたのが1952年。最後の24巻は生前には出版されずに、最後は孫が出版したという凄い本だ。いつかは読んでみたいと思うが、ちょっと手が出ない。最後は口述筆記したものを平泉澄先生が校訂したという。
 「国史より観たる皇室」は近世日本史を書いていた83歳の著作ということになる。そんな歴史家の徳富蘇峰が17章にわたって、皇室についての考えを述べている。今の日本では正面切ってはあまり語られない見方もあり、実に新鮮だ。

(1)日本の統制力 
 日本人は混合人種であることは間違いないが、統一できたのは皇室の力にほかならない。
(2)日本民族溶鉱炉 
 それは神話でもなければ伝説でもない歴史的事実であること。
(3)日本の一大求心力 
 九州は支那三国時代まではほとんど独立国であり、近くは維新の際の奥羽連盟に観るように、日本の遠心力は本来かなり強い。皇室の求心力が国をまとめ、日本を生長せしめたる力である。日本の国是は何かの考えを吐き出すことではなくて、受け入れることであり引寄せることにある。五カ条の御誓文はこれに基づくものであり、「知識を世界に求め、大いに皇其を振起すべし」とある。日本の臣道は神代以来動かすべからざるものとして、大和民族の一大信念となっている。
(4)日本精神の根軸(こんじく)
 日本は支那に向かって何等誇るべきものをもたなかった。何を以て支那と比較しても勝ち目がなかった。ただ国家として恒久的に一貫的に独立し物質的独立を保っただけでなく、精神的独立していたのは全く万世一系の皇室が存続している為である。日本人の心意気は、支那がどう威張っても革命の国であり、我国は、神代から天照大神の天津日嗣の御子たちによって統治(しろしめ)される神国である。我国の神国思想は、明治以降の物ではないことは、古事記日本書紀さらには神皇正統記をみれば明らかである。
(5)神国思想 
 神国思想を取り去ったとしても、万世一系の皇室の存在は歴史的事実であり、その存在が日本精神の根源であることは疑いがない。
(6)日本のデモクラシーと皇室 
 日本はもともと専制の国ではない。神代記をみても八百万神が天の安河原に神集(かんつど)いに集い、神議(かんはか)りに議ったと書かれている。聖徳太子の十七条憲法はその良い例である。鎌倉幕府徳川幕府も政治は全て評定によって行われ独裁政治は例外である。我らと皇室の関係は、一面から観れば君主と臣民であるが他面から観れば家長と家族である。利害特筆だけ考えても、天皇制を打倒しても得ることはなく、害は大きい。日本のデモクラシーは皇室とともに発達したことは歴史的事実である。
(7)国民の宗教心と皇室 
 日本に欧米のキリスト教のような宗教はない。宗教と言えば仏教となるが、欧米のキリスト教とは比べ物にはならないし、神道各派は、仏教には及ばない。しかし宗教心自体はどこの国にも引けを取らない。その宗教心を満たすものが皇室なのである。もちろん時代により厚薄濃淡があったが、一貫して今日に至っている。天皇が現津神(うつつがみ)であらせ給おうがなかろうが、皇室に対する国民の心持ちには一種の宗教的神秘性がある。終戦に際して連合国の予想を裏切って一兵も動かさず収束したのは陛下の威霊である。近世日本のパイオニア織田信長は国民的精神の統一の中心を皇室と考えて近世日本が始まった。
(8)皇室の宗教的根拠と感化
 日本の皇室は欧米のキリスト教に比すべき宗教的根拠、宗教的感化を持っている。宗教は科学ではない。旧約聖書の創世記もキリストの奇跡も科学の眼で見れば有るはずのないことである。支那にしても堯舜三代といっても歴史として確実に考えられるのは殷の時代からである。我が皇室の歴史の初めも伝説神話によってできている。それを以て紀元節(2月11日)を取り消せ、神武天皇の祭日(神武天皇崩御は『日本書紀』によれば紀元前586年3月11日だが西暦換算して4月3日)を止めろなどとは全くの見当違いである。欧米のデモクラシーもキリスト教と一体であって、それがなければ弱肉強食の殺風景なものとなってしまう。
(9)日本統一と神武天皇
 自由主義は個性の尊重を第一の眼目としている。それは個人のことだけではなくて国家においても、民族においても同様である。日本の国家、国民としての個性は万世一系の皇室を持っていることである。日本に皇室ができたというより、皇室が日本を創ったと言った方が適当である。神武天皇が柏原宮で天皇の御位におつきになられた年月日に異論はあったとしても、神武東征という事実には変わりがない。日本統一の基礎は神武天皇によって定められた。そうでなければ、日本は群雄割拠の国となっていたかもしれない。明治維新の盛徳大業を語るのに、三条、岩倉、西郷、木戸、大久保がどんなに働いたからといっても、明治天皇なかりせば、彼らが偉ければ偉いほど内輪喧嘩で終わったかもしれない。フランスの哲学者コントは神道教なるものを提唱し、人類に功徳を及ぼした人を崇拝することを訴えた。イギリスのコント派の中心人物の一人であるフレデリック・ハリソンの編集した「偉人暦日」という本には神武天皇のお名前と略歴がのっている。
(10)日本統一の定礎とその紹成(しょうせい:糸を紡ぐようにして完成させること)
 日本の統一は神武天皇によってはじめられたが、すぐ統一された訳ではない。崇神天皇景行天皇は統一に注力された天皇だ。熊本に天子宮という景行天皇を祀った神社があるが、それは日本書紀の記述と一致している。日本武尊(やまとたけるのみこと)の遺跡は各地にある。本当に日本全国が王化されたのは平安末期から源平初期である。
 日本書紀を読んで驚くことは、その後半の半分は、朝鮮半島のことが書いてあることだ。朝鮮の歴史書に書いてないことが日本書紀に書かれている。九州と西南方面の治安は半島方面の勢力によって攪乱されていた。その禍いの源を絶つために日本府を置いたこと、一日の長がある文化を吸収する拠点としての意味もあったろうし、有史以前からの人と物の交流があったことも事実だろう。半島との葛藤も、大きく言えば皇室があるために有利に処理されてきた。
 文化から見るとなんといっても聖徳太子の名前が燦然と輝いている。ひどい評価する人もいるが、対外的には独立日本の地歩を高め、対内的には日本の文化を向上させた大恩人である。
(11)日本統一の完成
 聖徳太子の創めた国家経営、国土統一、文化向上等の事業は、天智天皇に至って完成した。それを大化の改新という。明治維新と似ているのである。物部氏蘇我氏といった大氏族は姿を消した。大陸の波動は必ず我が国に波及する。唐の安禄山の乱に際しても、その反乱軍が制圧されても、その残党が日本も来るかもしれないと西南の防備を固められたことが続日本記にでてくる。藤原氏の摂関時代、鎌倉、室町、織豊、江戸時代を通じて、日本国民の中心は皇室だった。天下泰平の時はともかく、イザとなると天皇以外に日本の国家の代表者はいなかった。
(12)外患と勤皇心
 蒙古襲来を退けたのは北条時宗だということになっているが、国家総動員をできた元締めは朝廷にあった。亀山上皇は、身を以て国難に代わらんとの御祈願を行われた。北条であろうが、徳川であろうが、ことが外交に及ぶときは朝廷に奏上し朝廷のご趣旨を奉戴して、それを遂行することとしたのである。それを独断で断行したのが井伊直弼であり、その結果として桜田門外の変が起きた。頼山陽北条時宗の功労を認めようとして、皇室の役割を過小評価している。勤皇心は肇国(ちょうこく:新しく国を作ること。建国)以来時として休火山のような状態となるが、ひとたび重大な事件が起これば活火山となる。対外精神は必ず勤皇心と追随するのである。下は一禅僧から執権北条時宗まで、その勤皇の志において異なるところはなかった。
(13)維新の大業と孝明天皇
 明治維新は、徳川幕府が財政的に破たんして自発的に分解したと唯物史観ではみるが、そんなことはなく、下からの尊王攘夷の運動と上からの励ましが、上下から維新を成立させたのである。維新の志士の功労を認めるのにやぶさかではないが、孝明天皇の働きは誰にも劣らないと思われる。すべての志士が天皇ご自身の言動に感動していた。必ずしも卓抜した政治家ではないが天皇としては実に卓抜された方だったと思えてならない。国民の父母として国家のためには何時でも一身を犠牲にするとの思召である。その御製にこうある。
     すまし得ぬ水に我が身は沈むとも濁しはせじな四方の民草
     朝夕に民安かれと思う身の心にかかる異国(ことくに)の船
(14)人君の天職と明治天皇
 孝明天皇明治天皇の歴史を知る者は、天皇制の利害だとか打倒などということは考えるはずもない。幕末に、もし皇室が無かったら、バルカン諸国と同様に、諸外国の勢力の角逐場となり、独立も統一もあるはずはなかった。皇室があればこそ奥羽諸藩はさほどの抵抗をせずに降伏したのである。もちろん三条、岩倉、西郷、木戸、大久保その他が輔弼したことは事実だが、明治10年以降は比類稀なる傑出した御人格が出来上がったように拝される。明治天皇は、終始一貫、道によって動き、正しきに向かって進み、あくまで国際信義を確守し国家国民のために皇位にあられた。天皇政治のモデルは明治時代にある。国家の生きる活力の源泉が天皇制の中にある。
(15)独善的天皇崇拝者の罪科
 しかし、あまりの皇室中心主義が、思いがけなく国民の皇室に対する情愛を冷却させてしまった。左派以上に極端な天皇崇拝論者が一君万民の皇国固有の美政を傷つけた。明治の御代が終わると同時に、いつの間にか天皇は日本国民の天皇ではなくて、官僚や軍人とかの天皇となってしまった。宮内省の役人が陛下を我が物として、行幸ある毎に、地方官は宮内省にひどい目にあい、人民は地方官にひどい目にあった。かかる時世においては便乗する者あり、陶酔する者あり、幾多の自称検察官を産まれた。針小棒大な事件をを作り上げ、幾多の忠良なる人民を不敬事件の犠牲者にしてしまった。私自身、皇室に対し、言論、文章において一言たりとも不敬な言葉を使ったことはないが、何度か告発され、国歌の斉唱に発声したかしないかの微細な点まで監視されるようになった。そうしたことはかえって皇室を敬遠させる契機となったのである。
(16)君道と輔導
 日清、日露の戦争は、天皇制の大なる光を発揮されたが、今回の大東亜戦争は、最も聖徳が隠蔽されていた。申し上げにくいことであるが、事実なので仕方がない。今上陛下(昭和天皇)に何らの苦情や不平を申し上げる気は全くない。ただ国家のために事実を語らなければならない。この国家の運命を決する大戦争について、今上陛下はほとんど傍観的、批判的、第三者的な立場から眺めていたようである。そのことが立憲君主国の君主たる道に適うものと自らご満足あそばされているかも知れない。しかし陛下を教育申し上げたる人々に対して遺憾の意を表したい。もし自分の伝聞いたことが事実だとすれば、今上天皇昭和天皇)ほど私徳の立派なお方はいらっしゃらないと思う。しかし天皇としての天職の御自覚は十分ではないと思われる節が無いでもない。これは教育した人の問題である。明治天皇は天性明君の素質をお持ちの御方だったが、理想的な名君にしたのは輔導した明治の元勲とともに、その御教育に当たった元田永孚のおかげである。あまり人を褒めない副島種臣も元田を褒めた。勝海舟伊藤博文も彼を褒めた。彼に対し尊敬と感謝の言葉を言わざるを得ない。
(17)日本の転落と輔弼の側近
 大きな悲劇の原因は、今上陛下(昭和天皇)の側近に元田永孚がいなかったことである。伊藤、山縣、桂、山本等がいなかったことである。立憲君主として終戦までほとんど傍観されていたことについて、誰も諫諍(争ってまでも強く目上をいさめること)しなかったことが、今日の日本の転落を引き起こした原因である。陛下の御責任を問う者は誰もいない。天皇神聖にして侵すべからずとある以上は我々はそうするしかない。しかし輔弼の臣僚において今少し輔弼の責任を尽くす者があってしかるべきだった。誰が悪い彼が悪いというつもりはない。あらゆる元老重臣、近くにいる官僚に対して、そのことは許しがたき大罪だと言わねばならない。(旧)憲法における日本の天皇と英国の君主には大きな差がある。英国は、ほとんど民主国でその権力はほとんど下院にある。君主は内閣に対し命令や強制はできないが、批評し、示唆し、勧誘し、忠告すると言われている。グラッドストンもそのためにしばしば当惑したと言われている。
 (旧)憲法上は全くの君主国の実態を備え、天皇が統治者であらせられた。統治権を総攬し、また天皇が陸海軍の統帥者であらせられ、宣戦講和、諸般の条約も天皇の親裁によって定められる我が国にして、英国君主ほどのことさえ行わせなかったのは輔弼の臣僚の怠慢と言わざるを得ない。もし天皇終戦以後の御態度で終戦以前に行動されたならば、歴史の流れもかなり変わっていたものと信じている。
 井上毅によれば、明治天皇は理想の立憲君主であらせられたと言っていた。しかし天皇は何人が政権をとってもご自身が天皇である。日本の治乱荒廃はかかって天皇の御一身にあることを忘れたまわれなかった。問題がある毎に、必ず自ら御研究されて考慮し、信頼されるあらゆる人々に質問された。軍事は軍事、政治は政治、外交は外交、財政は財政、教育産業のあり方までご質問になった。しかし一度決するや天地がひっくり返っても動くことはなかった。日露開戦避くべからざる場合になった際にも、御前会議の前に、予め伊籐博文を呼び、その意見を聞いたという。明治天皇は全ての点でこの通りであらせられた。
 もし陛下(昭和天皇)が大元帥としての御実を挙げさせたまい、海陸両軍打って一丸となり、官もなく民もなく、武もなく文もなく、真に総動員、総力戦の実を挙げたならば、この戦争の結果がどうなっていたかはわからない。しかし今は既にすべてが消えて跡なき夢となった。

 徳富蘇峰は、昭和天皇の側近、重臣を非難しつつも、天皇制の擁護と弁護を図ったとも考えられる。
 大きな国難に直面して、国境の島々の動向に、そして対外精神に国民の関心が向かったとき、日本国民の間に、勤皇の心が復活しつつあることを、我々はまさしく今経験している。