父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう)

 少し前に亡くなったが、薬師寺管長に高田好胤(1924-1998年)さんという話の面白いお坊様がいた。金堂、西塔などの伽藍を復興した人だ。11歳のとき父を亡くし、薬師寺管主の橋本凝胤さんに弟子として引き取られたという。凝胤さんの教育は厳しく、夕食後の読経練習のとき居眠りすると火箸でたたかれたという。しかし遠足や運動会のときには弁当を作ってくれた。当時の薬師寺は荒廃し仮金堂の屋根にも穴が空いていたという。
 学校を出て副住職になると修学旅行の生徒への法話に力をいれた。それが人気を呼び全国から500万人以上の生徒が訪れたという。金堂の再建だけでも10億円が必要だった。檀家がない薬師寺は全国から一人1000円で般若心経の写経の納経の供養料を集める勧進を進めた。1人1000円では100万人の写経が必要だった。1年目は1万巻集まった。数えきれない程、講演をして、本を出したり、デパートのイベントに仏像を貸し出したりしながら復興事業をすすめた。1976年に念願の100万巻が達成され金堂が再建された。そして写経勧進は今も進められている。好胤さんの没後、大講堂も落成した。
 悲惨な交通事故や小さな子供が被害者となる事件が報道されるたびに、なぜか彼の話が聞きたくなった。もちろん、なくなっているので話は聞けないが、彼の本を図書館で借りてきた。金堂を復興した1976年に書かれた「母 仏説父母恩重経」という本だ。その本の最後で、前年に建立された慈母観音をご本尊とする薬師寺の東関東別院である潮来の潮音寺への父母恩重経の納経を勧めていた。
 もしやと思ってネットで確認すると、東日本大震災によって、潮音寺も大きな被害を受けていた。諸堂16棟の内、4棟のみを残して解体することになったとある。液状化がかなりひどかったようだ。2004年に潮音寺の副住職となった好胤さんのお弟子さんの大谷徹奘(てつじょう)さんが、お説教と勧進に全国を飛び回っているようだ。
 一つ気になることがあった。「新たな覚悟と再出発」を誓われる方々のお手伝いをする寺とあった。調べてみると、潮来出身の橋本登美三郎(1901-1990年)さんが中心となって建立されたお寺だった。晩年はロッキード事件に巻き込まれ恵まれなかったが、佐藤栄作さんと苦楽を共にし、田中内閣の幹事長となった大政治家だ。
 1927年に早稲田をでて朝日新聞社に入社し、満州を皮切りに中国で記者生活を送った方だ。1937年8月まで南京支局にいて、その年の12月に南京を日本軍が占領した際には、部下を15人ほど引き連れて一番乗りしたことで知られている。きちんと記録が保管されていれば、朝日新聞には南京事件はなかったという記録があるはずである。
 橋本さんの信仰心の篤さは有名だった。仏教界の高僧たちがやってきて政治を批判すると「若者を救うには政治の役割も大きいが、なんといっても彼らの心のスキマを埋めるのは宗教家の義務ではないか。今こそ自ら辻説法をして若者を救うために尽力してはどうか」とたしなめたという。今そんなことができる政治家は何人いるだろうか。お寺には澤田政廣さんの観音像があるという。一度お参りに伺いたいと思った。
 話を本に戻す。「第1章 親の姿・子の心、第2章 仏説父母恩重経、第3章 母の情を性命となす、第4章 親不孝と地獄、第5章 お母さん」の5章からなる。
 印象的な言葉とエピソードが幾つもあった。最後の方から幾つか抜書きすると、悟りとは決心することである。みんなが幸せになるためならば、自分に苦しいことがあっても、喜んでそのお手伝いをすることを波羅蜜の行という。般若心経というお経は約270文字だが、煎じ詰めると空の一文字に帰すると言われている。この空の精神を「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろくひろくもっとひろく、これが般若心経 空の心なり」と唱和しつつお写経勧進に打ち込んできたこと。そして薬師寺の金堂のヒノキが樹齢2500-3000年であり、台湾の劉さんのご縁と力添えで運ばれてきたこと、潮来に「母と子を護らせ給え」との念願が込められて潮音寺が建てられたこと。
 もうすぐ母の日が来る。