比較植民地学の構想  独立60年目の志

1.デジャブ 
 あれから1年が経った。政権交代後の鳩山内閣の迷走の後で、菅内閣でも混迷が続き、外国人からの違法献金の問題で政権存続は風前の灯火だった。1年前に書いたブログをみると、内閣は、6月までに、普天間の問題を解決し、消費税を引き上げを決め、社会保障を建て直し、TPPに参加して農業を構造改革し、サービス分野を全て開放し、国会の議院定数を削減し、歳費を大幅に削減すると言っていた。自分はその日の朝、「現実的な判断や処理ができない内閣では、災害がおきても、国際紛争が起きても的確な対処はできそうもなく、もうすぐ選挙のシーズンに突入する」と書いていた。
 そして1年が過ぎた。東日本大震災の復興は進まず、ホルムズ海峡は嵐の前の静けさだ。北朝鮮に対する食糧支援に関する米朝協議は、全ての実務的問題で合意し、すぐに支援が始まることになると報じられている。北が核兵器の開発を中断するはずもないが、春先には動揺すると予測されていた3代目王朝の存続を支援する代わりに、中東問題に全力投球できる体制を整えているようにも見える。
2.浜松からミャンマー
 浜松に本社があるスズキがミャンマーへの再進出を検討しているという。現地企業と四輪車生産の合弁会社を設立する計画だという。現在の労働コストは、大まかに言って中国の1/10、ベトナムの1/3位ではないか。親日的な仏教国でもあり、言葉の習得も存外、時間がかからないという。民主化が進展して政情が安定してきたことも再進出の追い風になったという。スズキは1998年に現地資本との合弁を設立し、国内向けに二輪車と四輪車を生産し、ピークの2008年度に二輪3千台、四輪1千台を生産していたが、2010年に合弁会社清算している。今回は、日本などから部品を輸出し現地で完成車を組み立てるノックダウン生産を行う方針だという。製造拠点には、旧合弁会社ヤンゴン市内の工場を再利用する可能性が高いとみられている。
 浜松はミャンマー国軍の創設に関与した大本営直轄の南機関(1940年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ)の機関長だった鈴木敬司陸軍大佐(のちに陸軍少将)の出身地であり、スーチー女史の父上のアウンサン将軍も鈴木大佐の浜松の実家に滞在したことがあるとされていることを思い出した。
 往時の日本とビルマの関係を知るには、泉谷達郎氏の「ビルマ独立秘史―その名は南機関―」(徳間文庫、1989年)、「ビルマに咲いた友情と信頼の花―インパール作戦・イラワジ会戦外史」(日本・ミャンマー歴史文化交流協会、1997年)が、信頼できる記録だと言われている。
 高田馬場には、亡命ミャンマー人の住民の集積が確認されているが、ビルマ族なのか100を超える少数民族の人々なのかはあまり気にされてはいない。日本人で構成される支援団体も旧陸軍系の人たちが少なくなったので、キリスト教系の人々が多いように感じられる。それで差別をするべきではないが、民族問題に無知であることは共に働き、生きていくうえでは不用意だと言っても良いのではないかと思う。歴史の良いことも悪いことも、あるがままに受け止めて、賢く思慮深い行動ができる大人を増やしていく努力が、国家の長期の安全保障の条件だと思えてならない。
3.比較植民地学の構想
 日本の歴史教育は、東京裁判を正当化するための占領政策の影響を受けて、1885年から1945年までのざっと60年間の歴史の叙述が自虐史観の影響を受けていると思われる。占領期の7年間をはさんで、1952年から計算して今年は60年目にあたる。占領下に制定された新しい日本国憲法によって「ダチョウの平和」の無理が続いていて、現在の世界情勢に対する認識をゆがめている。日本史でも世界史でも現実の世界を理解するうえで最も重要なここ120-130年間の記述分析が偏っている。
 一般の高等教育機関においても地政学、植民地学、軍事学、諜報活動や防諜、宣伝などの教育や訓練がほとんど行われず、古事記日本書紀万葉集延喜式神皇正統記などの古典教育が軽視される国となっっている。戦前の日本が全て正しかったとは思わないが、事実を事実として認識する大人を増やしていかなければならない。地政学や植民地学を統合して、国際関係論の一部として比較植民地学なるものを強化すべきと考える。多くの国々はかつて植民地であった。日本も7年間占領され、事実上植民地状態に置かれていた。占領下の政策をみると、植民地に適用されていた政策が多く採用されていることが明らかである。そして、現代もその歴史の延長上にあり、植民地時代の統治の仕方や、社会構造、エスニックグループなどの社会集団の役割と活動を分析することが、現在の社会構造や政策を理解するうえでの大きな武器になる。
 ミャンマーでは、植民地になる前に7割程度に達していた識字率が植民地支配が長くなるにしたがって大きく下落したと言われている。ジョージ・オーウェルは若い頃、ビルマの警察官だった。「ビルマの日々」は植民地支配にあえぐ人々の姿と都落ちした英国人の生活をかなり克明に描いていると言われている。味覚にこだわらない国民性と優秀なアングロサクソンという自意識が世界征服のカギとなった。英国は植民地時代の搾取と横暴に対して未だに何の謝罪も賠償もしていない。植民地支配で謝罪した国は数少ないし、学校を建て、国民の統合を進め、資本が集中的に投資した国もほとんどない。
 カナダのケベックでもフランス系市民が独立運動をしているのはフランス系市民に対する英国系市民の差別意識が引き金だった。だから、皮膚の色が違うインドや、ビルママレー半島での現地民への対応は激しいものだった。ビルマでは石油やチーク材などの資源をただ取りし、少数山岳民族に治安権限を与えてビルマ人と争わせた。抵抗すればイスラム教徒のインド人のライフル部隊が殺しまくっていた。
 タイの首都とビルマヤンゴンを結ぶ泰緬鉄道の建設には現地の労働者とともに捕虜も建設にあたらせた。オランダ人捕虜だった人は、後にKLMオランダ航空の東京支店長になったが、「体重が半分になるほどの重労働だったが、最もこたえたのは白人が有色人種に使われたという屈辱感だった。」と述べている。日本人は、小中学校で江戸時代の長崎におけるオランダとの交流の話だけしか教わらないため、オランダが親日的な国家であると頭から疑わない傾向がある。もちろん親日的な人がいないわけではないが、インドネシアがかつてオランダ植民地であり、日本軍がインドネシアを解放し、一時的には独立させたことを忘れている。
 戦前の日本を大東亜戦争に追い込んだというABCD包囲陣のDはダッチつまりオランダであることを知らない人も多い。日本を叩きのめしたのは米国であって、戦争中さんざん屈辱を受け、さらに植民地を失った英国など欧州諸国は何もできなかった。白人が黄色人種の捕虜となり使役に使われたという屈辱感とフラストレーションが欧州諸国の対日感情を形作っていた時代が戦後しばらく続いた。植民地からの独立の経緯は夫々の国の国民感情に残っている。インドネシアを訪れた人で、インドネシアが大の親日国家の一つであることを実感しない人はいない。
 国家でも、企業でも、創業の時の経緯がその国や企業の性格を決めることが良くある。例えば、口の悪い企業分析家に言わせれば、1%のひらめきと99%の訴訟でできたのが、マイクロソフトだという。ビル・ゲイツMS-DOSというアイデアを作ったが、彼の父親が弁護士で、自分の事務所の一番の腕効き弁護士を息子のもとに送り込み法の壁を作り上げたことが成功の要因だという。こうした2−3行の分析が数百頁の企業分析書よりも、企業の性格をよりよく理解できる場合もある。
 植民地となるに至った経緯、植民地統治の方法と現実、植民地からの独立の経緯、現在の経済社会への影響などを比較分析することによって、国際関係を形作る人々の意識や考え方をより深く理解をすることが可能となる。ミャンマーを理解する場合に、アウンサンスーチー女史が自宅に軟禁されたときから歴史を読み始める人間と、イギリスがビルマを攻め植民地にするところから歴史の推移をみる人間では大きくミャンマーへの歴史理解が異なると言わざるを得ない。