器量と覚悟

 西岡武夫参院議長が亡くなられた。遠くで見ているだけでお会いしたことはないけれど、日本の来し方行く末を論じ教えていただきたい方の一人だった。いい大人をつかまえて、純粋という言葉は褒め言葉にはならないが、その志と覚悟が、テレビの画面からも伝わって来る人だった。野田首相はフランスのカンヌで消費税を10%に上げると公約し、次のハワイのAPECでTPPへの参加を表明するという。信用不安の欧州に行って日本の財政問題を発言する意味が分からない。リーマンショック以上の不況にどう備えるかを議論しなければならないのにトンチンカンで唐突だ。「国会では何も言わない、何も議論しない」という安全運転の無言独裁政治には明日がなく、存在理由がない。 
 李登輝さんの本を読んでから、「器量と覚悟」という言葉が頭を離れない。文芸評論家の福田和也さんが09年に新潮社から「人間の器量」というテーマで新書を出している。これが実に面白い。「優れた人はいる。感じのいい人もいる。しかし善悪、良否の敷居を超える、全人格的な魅力、迫力、実力を備えた人がいない。戦後、日本人は勉強のできる人、平和を愛する人を育てようとしてきたが、人格を陶冶(とうや)し心魂を鍛えることを怠ってきた。なぜ日本人はかくも小粒になったのか。・・・お金がなくても、国や企業は立ち行くけれど、人がいなければどうしようもない。」という。全く同感。その本の最後で3つの時代に分け器量人十傑をあげている。勝海舟、池辺三山、三宅雪嶺などの人物評や同時代の実に多くの文献を背景にしている。本文では十傑以外にも、乃木希典という将軍の人格、学者としての南方熊楠、狩野亨吉、内藤湖南の学問のスケール、尊敬できる軍人としての硫黄島栗林忠道ノモンハンインパールの敗戦を指揮した宮崎繁三郎、社会運動として水平社運動を支援した有馬頼寧伯爵、苦学生のための寮を作った木戸幸一侯爵などをあげている。

●明治時代
 1)西郷隆盛 「西郷のために何千人という人が死んでいるけれど、西郷を怨むという者はない。今でも神様のように思っている。つまり少しも私ということがない。・・・結局は人の信用である。その信用が七十年後の今日毫も変らぬ処に大西郷の姿を窺うべきである。」(牧野伸顕「松濤閑談」)
 2)伊藤博文 百姓ともいえない身分から立身、内閣、憲法、議会を作り華族を作った。松下村塾で高杉、井上と遊んだことが運の始まり。暗殺事件で武士となる。思い切りも良く準備も周到。憲法制定では天皇のご学友藤波言忠を留学させて根回し。女好きだが、芸者の芸はいつも真剣に見たため抜群の人気があった。
 3)勝海舟 島田道場に住み込み剣術と座禅を修行。ほとんど毎日、不眠で4年間。勝とうと思うと頭に血が上り動きがつかず、委縮すると相手のいいようにされてしまう。事の大小の別なく勝ち負けを度外視し虚心坦懐に事にあたること。福田さんは、その修業が比叡山千日回峰行と似ているという。
 4)大久保利通 明治国家の建設者。目的を実現するためには手段を選ばない徹底した政治家だが、自分の政策はない。政策は他人から聞いて良いと思ったものを実行する。権力を握ってそれを有効に使いきることにすべての神経を使う。この割切りができたのは近代日本では大久保だけだという。
 5)横井小楠 幕末明治初頭で群を抜く思想家。徳川慶喜松平春嶽も深く傾倒。龍馬の船中八策は彼のアイデア。酒色の失敗多いが情勢分析に優れる。初め朱子学を奉じるが、西洋流の経済産業の振興を国是とする改革、開国にむけた諸侯の会議の開催だけでなく、外交について国際連盟の創設も提議したという。 
 6)渋沢栄一 深谷豪農の出。徳川慶喜の知遇を得てパリ万博に参加。第一国立銀行王子製紙富岡製糸場、日本鉄道など百数十社を設立。東京商法会議所を設立。論語の解説書を執筆した。
 7)山縣有朋 評判の良い人ではないが、人事の才により軍と官に君臨。埋もれた人材を見つけるのが巧み。オランダで法学を学んだ西周に陸軍刑法を作らせ、フランス語通訳ばかりさせられていた有坂成章を抜擢して大砲の専門家に仕立てた。埼玉で下級官吏をしていた清浦圭吾を見い出し総理に育てた。 
 8)桂太郎 山縣の部下。仇名はニコポン。とにかく敵を作らない。日露戦争を取り仕切る。面子なんてどうでも良い。どんな辱めを受けようと、目的を達成するのが政治。総理大臣の時、執務室に「韓信の股くぐり」の図をかけていたという。頭はいくらでも下げますという意味で政治家の一つの完成形という。
 9)大隈重信 近代以降で最優秀な官僚。外交ができ、経済、財政、産業振興にも切れ味。当初はごく少数の人としか会わなかった。50を過ぎて五代友厚の諫言を入れ、どんな愚論愚説も最後まで聞き、ちょっと良い提案でも採用し、決して怒らず、処理を急がず、嫌いな相手にも交際を求める人徳の人となったという。
 10)徳富蘇峰 明治・大正・昭和を通じて影響力のある著述家。ただその立場は振幅が大きい。キリスト教の理想を掲げる新世代として現れ、藩閥政府と癒着し、国権主義者となり、満州国皇帝溥儀の師父となり、戦後は軍閥政府批判の論陣をはっていた。

●大正・昭和戦前
 1)原敬 南部藩家老の家系だが、士分は捨て、白河以北一山百文にちなみ一山と号す。苦学して入学した司法省法学校は退学処分。井上馨の知遇で外務省にはいり陸奥と出会う。軍人、官僚とも濃やかに付き合い山縣有朋の懐刀に。大隈と同様、誰とでも会った。暗殺されたが、あと10年生かしたかった。
 2)高橋是清 奴隷に売られた米国からの帰国後東大の先生。吉原通いで借金。辞職して相場師となり無一文。波乱万丈の人生だが、庶民からダルマといわれて慕われる。女にだらしがなく、政治家としての能力はないが、この人が大蔵大臣をしている限り景気は悪くならないことを市井の人々は知っていた。
 3)菊池寛 作家で文芸春秋社創始者。理想を一切信じない俗物。小説の書き方も破天荒で、就職口のない女子大生を何人も集めて、片端から英語の小説を読ませて、その粗筋を書きあげさせて、その使えそうなプロットを選び出して執筆。2月8月は雑誌が売れないので芥川賞直木賞を作った。 
4)松下幸之助 父親が米相場で失敗し一家離散。小学校3年から丁稚奉公。電気会社の職員となり夜学に通い技師を目指すも字が読めずに挫折。学がないため知識がなく、自分の頭で水道哲学を考えた。健康でもなかったので人に任せたら人が育った。全てのマイナスを成功に転じた素晴らしい事例。
 5)今村均 士官学校、陸大を首席卒業。ジャワでは9日で英蘭連合軍を敗北させ、スカルノを釈放し現地政府の重職に起用。ラバウルでは食料自給自足により11万人の将兵を無事帰国させた。戦犯として10年の禁固刑。部下と同じマヌス刑務所での服役を直訴。釈放後も3畳の小屋に住み、講演執筆の印税は戦犯の家族に寄付。
 6)松永安左衛門 壱岐の網元に生まれ慶応に学ぶ。28歳まで相場師。東邦電力を設立し、発電・送電・配電の一元化を唱えるが官僚と対立し引退させられる。1949年74才で電気事業再編成審議会会長。九電力体制で大幅値上げをはかり安定した電力で経済発展の基盤を作る。電力の鬼。女好きの大茶人。
 7)鈴木貫太郎 日本海海戦で一番ロシア艦を沈めた駆逐艦艦長。後妻は昭和天皇の乳母足立たか。海軍大将から侍従長となるが大戦末期に総理大臣となり、終戦を指導。(ルーズベルト死去に際し「今日、アメリカがわが国に対し優勢な戦いを展開しているのは亡き大統領の優れた指導があったからです。私は深い哀悼の意をアメリカ国民の悲しみに送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、アメリカの日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません。我々もまたあなた方アメリカ国民の覇権主義に対し今まで以上に強く戦います」と述べ英国で尊敬された。)
 8)賀屋興宜 大蔵官僚として資質随一。山本五十六、米内光政に恫喝されたが、賀屋の言うとおりにしていれば日中戦争は泥沼にならず、日米開戦はなかったと言われる。(石原慎太郎知事は「あんなに冷静で、人を食ってて、明晰だった人はいない」と評価しているという。)
 9)石原莞爾 陸軍を代表する鬼才。世界最先端の軍事理論を唱える。軍人でなければ思想家か大学者となっていた。満州事変は10倍以上の敵軍を瞬時に圧倒したが、日中戦争に反対し予備役。戦後鶴岡の近くで韓国人、中国人も参加した農場を作る。
 10)小林一三 鉄道経営とデパート、宝塚や東宝といったショービジネスを連携させた天才経営者。

●戦後から今日まで
 1)岸信介 巣鴨プリズンから出て10年たたずに総理大臣になった大人物。巣鴨プリズンでは泰然自若としていた。東大法科を首席で卒業し、農商務省に就職、産業政策を引っ提げて日本経済の改造を訴える。満州で重工業を発展させた。この方式が後の高度成長期を生み出したとされる。
 2)田中角栄 小卒で首相になり人気は70%を超えたが、2年後に立花隆氏の追求した金脈問題を契機にしたメディアの総攻撃で退陣。ロッキード事件で逮捕され失脚。約束したら実行。面倒見と気配りは天下一品。喧嘩上手で根回しの名人。議員立法33本は未だに大記録。ただ半径1mの外側に光が及ばず。
 3)小林秀雄 文芸批評の第一人者。無数の匿名コラムを書き、菊池寛に重宝がられた。若いときは中原中也と女性を巡り対立。酒癖の悪さは有名。江藤淳も説教され泣かされた。全集が最も売れている作家。なんといっても文章が良い。鋭いけれども、毎日の暮らしに懸命な人たちの心に届くという。
 4)小泉信三 慶応義塾塾長で今上天皇の教育係。敗戦後、皇室を存続させ、現在までに維持してきたことに大きな役割。美智子皇后陛下の選定にも主導力を発揮。
 5)山本周五郎 山梨大月の生れ4才の山津波で生家が倒壊。小学校卒業後、銀座の質店で働きながら英語と簿記を学ぶ。小説を投稿し文筆生活を始め、生涯借家住まいで執筆にかける。作品には笑いと悲しみ、人情、卓抜な筋立とドラマがある。様々な要素の長編の低層に存外厳しい絶望があるという。
 6)田島道治 東大時代に新渡戸稲造を尊敬し書生、愛知銀行に入り調査部長、鉄道院総裁後藤新平に乞われて秘書となった。金融恐慌の後始末のための昭和銀行頭取として活躍。後、退職金で給費制の寮を建て人材育成を試みた。戦後、初代宮内庁長官。草創期のソニーの役員を務め、同社の飛躍に大きく貢献。
 7)本田宗一郎 ホンダの創業者。スパーカブは戦後の日本の交通を支え、今世界各地で生活足となる。喧嘩早く勝利にこだわり。車を沢山売るだけでは我慢できないファイティング・スピリットをもった人物。
 8)吉田茂 義父の牧野伸顕と連携して終戦工作に関係。逮捕されたことで政治家として浮上。葉巻をくゆらし紺足袋をはき、平気で記者を罵った。ずれているため、大きな変化にも対して驚かない。講和までの大混乱を乗り切った。
 9)宮本常一 郵便局員、小学校教師を転々として民俗学、漁業、農業、離島の調査を行う。「自分の足で歩いていくことは、人と出会う事、考える事、見つける事だ」という。岩波文庫の「忘れられた日本人」は大ベストセラー。宮本を著者として売り出したのが平凡社で編集をしていた谷川健一先生。
 10)石橋湛山 東洋経済新報の社長。早稲田の専攻は哲学で実家はお寺。社内に高橋亀吉などの論客を揃えた。浜口内閣の金解禁を批判した論陣は論壇史に輝く。満州事変にも反対。第一次吉田内閣で大蔵大臣となるが追放処分となる。鳩山後継を勝抜き首相となるが健康悪化で2か月で退陣。その潔さは凄い。

 全ての人の事績・言動に詳しいわけではない。近くにいたら食あたりを起こしそうな人もいる。ただ皆迫力ある大人物であることだけはよくわかる。器量と覚悟をもった人物をどれだけ育てられるかが、国家の甲斐性なのかもしれない。