ポーツマスへの道 1905年9月5日

 外交官の勉強はまず英文法の勉強にあると教わったのは、社会人になって、だいぶたった頃だった。定冠詞がつくかつかないか、単数なのか複数なのかによって外交文書の意味が全く変わってしまうからだ。歴史についての知識も、現在日々起きている事件の背景を知るためには欠かせない。政治的立場や道徳的な価値判断をできるだけ排除して歴史学として学ぶことが必要だが、これが中々難しい。一つ参考になるのが元外交官の東郷和彦氏の「歴史と外交 靖国・アジア・東京裁判」(08年、講談社新書)という本だと思う。「異なった意見を持つ相手を尊敬しながら議論を展開する力を身につけ、・・・(日本)民族のエネルギーを、日本社会の力と日本人の創造性を開花させる積極的な方面にむけることは、意志と指導力があれば実現できるはず」との信念には感銘を受けた。この1年の迷走、漂流、混迷を経験し、今まで以上に指導者の資質について考えせられた。
 今から105年前の9月5日、日本とロシアは、米国大統領ルーズベルト斡旋により米国ニューハンプシャーポーツマスにおいて日露講和条約を締結した。時の外相小村寿太郎はこの時50歳。宮崎飫肥藩の下級武士の家に生まれ、藩校、大学南校を経て20歳のとき第一回文部省留学生としてハーバートで法律を学ぶ。25歳で帰国、陸奥宗光に見出され、外交の面から、もう一つの「坂の上の雲」をみてきた人だ。しかしこの講和条約に対する日本の人々の評価は厳しく反応は過激だった。講和条約反対集会、日比谷焼討ち事件、さらには米国大使館が襲撃され、教会が破壊された。これにより親日的だった米国世論は大きく変化したという。この夏話題となった日韓併合の前史として「ポーツマスへの道」即ち、幕末から日清戦争日露戦争にいたる対外関係をふりかえる。
 アヘン戦争後の1851年に始まった太平天国の乱とそれに続くイスラム教徒の氾濫は、満州人、モンゴル人、漢人チベット人イスラム教徒の同君連合だった清を変質させる。1884年新疆省を設置し、藩部自治の原則を破り、漢人が行政を担当。「満漢一家」による支配。(それまで清は、満州人とモンゴル人が連合して中国人を治め、チベット人イスラム教徒を保護する国家体制がとられていた。)

1868年 明治維新、1971年「日清修好条規」締結
1872年 琉球王国琉球藩とし国王を華族に列す。(1875年中国への朝貢禁止、福州琉球館廃止)

1873年 清朝は台湾の生蕃は中国の政教が及ばない「化外」と主張したため、74年台湾出兵。(71年に台湾に漂着した宮古島の島民54名が殺害されていた。)
1875年 日本海軍の測量船が江華島砲台より砲撃され応戦し、砲台を一時占領。翌年 「日朝修好条規」締結。日本に領事裁判権、中国の宗主権を否定。80年に日本公使館設置。

1882年 朝鮮において日本が指導する軍制改革に不満な兵士の抗日暴動により閔氏政権交代「壬午の軍乱」。 清は軍隊を派遣しソウル占領。閔氏政権を復活させ、大院君を天津に拉致。日本も派兵。公使館護衛のための駐兵権を得る。
1884年 ベトナム保護権をめぐり清仏戦争。フランス艦隊が基隆攻撃、台湾封鎖。

1884年 金玉均が閔氏政権を打倒し、親日政権を作るが、袁世凱率いる清軍の干渉により閔氏は政権再建。日本公使館、焼討ちにあい、日本人数十名殺される「甲申事変」。
1885年 伊藤博文と北洋大臣李鴻章4月「天津条約」締結。朝鮮からの両国軍隊の撤兵、朝鮮派兵する際に相互事前通告義務。5月李鴻章はフランス公使ともう一つの「天津条約」を締結。ベトナムの宗主権放棄。この年、化外の地としていた台湾を本土に組入れ、台湾省を設置。

1894年ー95年 日清戦争
全羅道で「東学党の乱」(伝統宗教のグループ)が起こると朝鮮政府は袁世凱に清軍派遣の要請。同時に日本も出兵。朝鮮政府と農民と和約したが、日清両軍は撤兵せず、8月1日に宣戦布告。9月16日平壌の戦いで北洋陸軍は壊滅。17日の黄海の海戦で日本海軍決定的勝利。日本軍は鴨緑江をわたり旅順占領。翌年1月山東半島に上陸、威海衛を占領。北洋艦隊降伏。4月下関の春帆楼で日清講和条約(伊藤首相・陸奥外相vs李鴻章全権)。朝鮮独立の確認と遼東半島・台湾・澎湖島の割譲。賠償金銀2億両。重慶・蘇州・杭州などの開港と開港場における日本人の企業経営権の獲得。最恵国待遇により列国も同様の権利。

三国干渉 満州南下を計画していたロシアはドイツ、フランスを誘い、軍艦を終結して武力示威を行ったため、日本は遼東半島を返還。その報酬としてロシアは東清鉄道敷設権を得て、さらに98年に旅順・大連を租借。同じくドイツは膠州湾を租借、イギリスは対抗して威海衛と九龍半島を租借。フランスも99年に広州湾を租借した。

ロシアの朝鮮への影響力増大 日清戦争後、閔氏を後ろ盾とする親露派が台頭。95年10月、三浦梧楼公使が閔妃を暗殺。これにより日本への信頼は低下し高宗は2年間、ロシア公使館に移り住む。98年ロシアが清から得た東清鉄道南部支線の敷設権には朝鮮国境までの路線が含まれていた。

1898年戊戌の政変 日清戦争に敗北すると、清では康有為を中心に日本の明治維新を手本にした「変法」運動が行われたが、西太后に光緒帝が幽閉されて失敗。

1899年ー1901年義和団事変 膠州湾を租借したドイツの強引な統治に山東省では秘密結社の義和団が蜂起。これは西洋人、キリスト教、西洋文明に対する暴動だった。1900年には山東から、天津、北京へと広がった。これに清軍が呼応し、6月には列国に宣戦布告し列国の公使館を取り囲んだ。これに対抗して8カ国が合計2万人の軍隊を派遣した。このうち1万人は日本軍だった。01年9月 11カ国の代表と清の間で、「北京議定書」が結ばれ、4.5億両の賠償金と公使館区域の安全確保のため列国は軍隊の駐留権を得た。

ロシアの満州侵攻 義和団の件が報じられると、満州において、ロシアの東清鉄道建設地域で清国軍を巻き込んだ鉄道の組織的破壊活動が始まった。ロシアはそれを好機として、鉄道保護を口実に18万人のロシア軍を動員し満州に侵攻を開始し、1900年末には満州を制圧した。

これに脅威に感じたイギリスは、1902年日英同盟を結成した。その2ヵ月後、ロシアは満州還付条約を清と結び、3段階の撤兵計画を発表した。しかし1年たつと、2回目の撤退をしないばかりか、「ロシア撤退後、満州を他国に割譲しない。許可なく他国の領事館を設置しない。占領中にロシアが得た権利は保留する」などの7カ条の条約締結を清に要求した。

1903年8月、日本は「ロシアの満州、日本の朝鮮における特殊利益を相互に認める」方針を伝えロシアと協調しようとしたが、10月になって、ロシアは朝鮮領土の軍事利用の禁止、北緯39度以北の中立化、朝鮮海峡の軍事施設の建設禁止を求める回答をした上に、旅順に極東総督府を設置し、満州南部に兵を移動させ、満州各地の軍備の増強を開始し戦争準備を始めた。

日露戦争 1904年2月8日、東郷平八郎率いる連合艦隊旅順港外のロシア艦隊を奇襲し日露戦争が始まった。この戦争で、日本は自国の存亡をかけて戦った。ロシアには余裕があった。歩兵総数だけでみても日本の10倍以上の大国だった。陸軍は、南山、遼陽、旅順、奉天の会戦で何とか勝つことはできても、人的な損耗は、ロシア以上に大きく弾薬は底をついた。日本は和平の道を探り始めた。しかし、ロシアはバルチック艦隊を太平洋に向けて出発させており、日本艦隊を撃破して制海権を奪えば、日本軍の補給をたち、戦いに勝利すると考えていた。1905年5月27日対馬海峡に向かうバルチック艦隊が発見され、日本海軍は、T字戦法を使った大海戦を行った。この海戦で日本はバルチック艦隊の戦艦8隻のうち6隻を撃沈し、2隻を捕獲、巡洋艦9隻のうち3隻を沈め、2隻を自沈させた。海戦史上、例がない完全勝利だった。

そして、ようやく9月5日のポーツマスの講和に至る。日本はこれによって、韓国の保護権、南樺太遼東半島、東清鉄道南満州支線の経営権、沿海州における漁業権を獲得したが、12億円の戦費賠償請求は拒否され、樺太の北半分は返還させられた。国民の多くは、継戦能力からみれば薄氷の勝利であることを知らなかった。