教養課程で身につけたい5つの能力

 5月連休前から国内外で様々なニュースがあった。民主党幹事長が1回目の検察審査会で全会一致で起訴相当と判断された。普天間基地移転の候補地は予想通り辺野古に戻ってきた。首相は沖縄を訪問して厳しい歓迎を受けたが、報道する記者が真面目に解説をすればするほど、その人が哀れに見えてきた。首相の言動は軽く報道する価値はない。普通に考えれば、杭打ち方式は軍事基地には不向きだし徳之島は遠すぎるという米軍の主張はもっともだ。
 7月に実施される選挙でどこが勝つかはわからないが、「たちあがれ日本」の基本政策パンフレットにあるように、我が国だけが緊張感のない政権運営を続ければ、財政逼迫、競争力喪失、雇用悪化、国際地位低下などの複合危機により急激に没落していく可能性が高い。「強靱な経済」と「安心な社会」を両輪とする日本の復活、豊かで力強く、助け合いにあふれ、日本の良き伝統文化を守る安心社会、すなわち「凛とした安心社会」が必要だ。これには全く同感だ。
 連休中に立花隆さんが10年ほど前に書かれていた本を読んでいたらこんな所説に出くわした。([出所]「東大生はバカになったのか」2001、文芸春秋社、文庫版2004)
 大学の教養課程で学生に是非とも身につけさせたい能力は、英語能力のほかに4つある。
1.論を立てる能力 誤った議論を見抜き反駁し人を説得する論理力と表現力。
2.計画を立てる能力 他人を組織化し、チームを動かし計画を遂行する能力。
3.情報能力 情報を収集、評価、利用応用する能力。
4.発想力 問題発見、解決能力。
 これらの能力は全て、実践の中でしか身につかないこと、今の日本の教育体系の中にはその部分が大きく欠けていること、「調べて、書かせて、ダメ出しをし、時に添削する」といった実習訓練がかなり必要なことを指摘している。フランスは高校の最終学年の哲学の授業で、アメリカでは小さい時からのディベートの訓練等を通じてこの部分をかなり鍛えている。我が国の国語の先生は情緒的な日本語の専門家が多く、東大においても、論理と表現力の訓練はほとんどされてないという。たしかに現在の社会のように、それぞれの分野での専門化が進めば進むほど、知識の総合性とこれらの能力が必要になってくる。
 昔は違ったと思われる。個人的に親しくしていただいた国立大学の名誉教授の方の大学時代のゼミでは、毎週、400字詰め原稿用紙20枚のレポートの提出が義務づけられていたと何かの本で読んだことがある。確か万年筆書きで最後の1行の半分以上の空白があることは許されていなかったという。そうした生活では課業に追われ毎週十分には寝れなかったはずだ。そうした訓練を受けた先生の同門人脈は本当に華麗だった。おそらく先生も自分のゼミの学生に同じことを課されたのではないかと推察する。そうした教育を復活させるにはどうしたら良いのだろうか。
 会社に入って、周りを見回してみると、仕事が凄いと言われる人のお弟子さん達は、学歴や経歴に関係なく仕事ができることに気がついた。それは会社から評価されたとか、偉くなったか否かとはあまり関係が無かった。その人たちと知り合って一緒に仕事をするのは本当に楽しかったし、世の中水準以上のことができたと思う。そういう意味では、学問や技術開発、実業の世界では、対話と実習を通じて人を育てることが大事なのかもしれない。
 近くに先生がいなければ、アリストテレスフランシス・ベーコン立花隆さんの本と対話し、毎週レポートを書いてみれば良い。自分にもケプナー・トリゴー社のコンサルタントの方が出した「質問力」という本を毎週読んで視点論点を確認しながら、仕事のレポートを作成していた時期があった。今日は久方ぶりに、お師匠さんたちの本を読みたくなった。危機なればこそ、緊張感のある生活が必ず復活するはず、今しばしの辛抱だ。