後藤新平の仕事(台湾編)

 後藤新平は1857年に岩手県水沢市で生まれた。須賀川医学校を卒業し76年愛知県病院に赴任し、81年には病院長兼校長となった。内務省衛生局長、長与専斎に認められ83年25歳より衛生局に出仕する。衛生調査、衛生試験所の創設と整備、医師開業試験制度の創設、上下水道の改修等を通じて長与専斎の懐刀として頭角を現す。90年満32歳の時にドイツに留学、衛生制度と社会政策を学び、医学博士号を取る。コッホのもとで北里柴三郎に細菌学を学ぶ。帰朝し92年36歳で衛生局長となるが、翌年、相馬家の相続問題に巻き込まれ半年投獄され多くを失う。日清戦争後の帰還将兵の陸軍検疫部の事務官長として再び出仕、陸軍検疫部を設営し短期間に大量の帰還兵の検疫を実施する。95年再び衛生局長に復帰。

台湾編
 95年の内務省の課題は「台湾人の阿片吸引問題処理」だった。後藤が考えた阿片根絶策を機に台湾総督府衛生顧問を命ぜられる。新平の主張する「阿片を政府管理とし既に中毒にかかっているものにのみ吸引を許可し特別許可店舗でのみ吸引を認め、新たな吸引者を絶対に認めない。事業の収益は衛生事業施設の資金として使い、数十年かけて阿片を根絶する」という案が採用された。この頃、三国干渉で遼東半島を返還することとなったが、台湾の経営もうまくいっておらず原住民の反乱が頻発するなか、98年切り札として児玉源太郎が第四代台湾総督に任命され、新平は児玉より台湾民生長官を命ぜられる。
   人員整理と人材確保
大日本帝国憲法は植民地台湾でにおいても施行さるべし」として作られていた法律の8割を廃止し、大量の役人を整理し、組織を簡素化、6県を3県に、警察署の数を64を44に削減した。その一方で農業経済の新渡戸稲造、土木の長尾半平、鉄道の長谷川謹介、医学の高木友枝、旧慣調査の岡松参太郎などの人材を集めた。
   三段警備の廃止・民政移行・ゲリラの投降勧誘 
山間地・ゲリラ地帯を軍が、平地・市街地を警察が、中間地帯を両者が協力して当たるという方法だが責任が不明確で混乱が絶えなかった。そのため軍の反対を抑えて、民生部門の要望がなければ軍は出兵しないことをきめ、台湾評議会という総督の最高顧問会議においても軍の高官を臨時委員に格下げし民政を敷くことを明確にし、ゲリラの投降帰順を促した。大部分を投降させ、残ったゲリラを武力で鎮圧した。これらの活動を通じて5万挺の銃が押収された。1902年、5年かかったゲリラの掃討が完了した。
   台湾インフラ近代化
鉄道・築港・土地調査の3大事業と給水、監獄・官舎建築の付帯事業を実行するため6000万円の公債発行案を作り法制局長官平田東助、海軍大臣山本権兵衛、山形有朋総理らを説得し、そして議会も含めて最終的には3500万円の公債発行を認めさせた。そして08年には7350万円まで増額した。これにより、基隆港は昭和4年に東西600m、南北1キロ、1万t級の船舶が同時に15隻荷役を行うことのできる本格的な国際商業港として完成。上屋倉庫の規模能力は当時東洋一。民間鉄道の計画もあったが鉄橋など難工事もあり、営業収益が上がるまで10年以上かかるため官営とし、長谷川に全てを任せた。また台湾では毎年数千名のコレラ患者が発生していたために、北里柴三郎の高弟、高木友枝を呼び寄せて、上下水道の整備を行った。この完成は東京・名古屋より早かった。
   殖産興業
97年には台湾銀行を設立。阿片、食塩、樟脳、煙草、酒を専売にして総督府で利益を上げた。新渡戸稲造はジャワの砂糖を研究し、糖務局を設置、甘藷を品種改良し改良品種を台湾全土に普及させた。後藤は、土着の製糖業者の反対を押しのけて山本悌二郎に大規模近代的製糖工場を経営させた。砂糖生産高は1900年の3万トンから1937年には100万トンと飛躍的に拡大した。ウーロン茶、米の生産も著しく伸びた。
 その結果1905年以降、台湾総督府は日本本国政府から補助金を受けず財政的に独立することとなった。