米中の狭間で 第二次大戦後の中国(2)

第二次大戦後の中国・・・既に2度米国と戦った中国人民軍
  (1937年-1945年 日中戦争
  1946-49年  国共内戦
この間共産党は農村部でのみ活動。毛沢東の理論と指導。地主と富農の土地を奪い再配分。一番小さな単位の自然村、同族部落にまで党幹部が常駐した。
 朝鮮戦争で米軍が50年10月仁川上陸に成功し北上を始めると、7月末まで鴨緑江北岸に集結していた中国軍は10月下旬に中国人民義勇軍として30万人が参戦、その後、延べ500万人が参戦、60-90万人の死傷者が出たといわれている。その際、中国沿岸部は第7艦隊に封鎖されていた。マッカーサーは仁川上陸には成功し朝鮮軍を38度以北まで押し返したものの51年4月に解任された。莫大な犠牲を伴ったものの、結果的に中国の安全保障は確保され国際的地位は向上した。日本は国連軍の補給基地となり、経済復興の端緒となった。  
  1950-1953年 朝鮮戦争
  1950年 チベット侵略
  1954年-1955年 第一次台湾海峡危機
  1958年 第二次台湾海峡危機 (金門砲戦)
  1959年9月から1962年11月まで 中印国境紛争
1953年中国共産党は都市の攻略を開始した。1958年の大躍進政策は大失敗し、経済水準は10年前の水準まで落ちた。餓死者は1500万人を超える(矢吹教授研究)。毛沢東国家主席辞任。1960年ソ連経済援助打切りにより中ソ関係悪化、劉少奇らの都市派に大打撃。1966年農村派の毛沢東による無産階級分化大革命。「五・七指示」は、農民が最も完全な人間で理想的な中国人の原型なので都市の機能をすべて農村に吸収して都市問題を解決しようというものだった。これを文字どおり実行したカンボジアポル・ポトは悲惨な結果になった。

ベトナム戦争において北の南進を防ぐため、大規模な北爆が行われた。ベトナム側には65年から常時4-5万人の中国人民軍が参戦していたことが近年分かっている。防空部隊、海上輸送部隊がソ連製の速射砲と砲弾で対抗した。米国は中国とソ連と戦っていることを公表したがらなかった。
  1965年〜1972年 ベトナム戦争(人民軍もベトナム側で参戦)
  1969年-1978年 中ソ国境紛争
文革毛沢東の勝利に終わると、林彪の率いる軍の勢力が強くなった。71年米中接近し、林彪失脚。世界の扉を開くが経済低迷が明らかとなる。中国では1970年4月、周恩来北朝鮮を公式訪問、4月に人工衛星打上げ成功、そして10月には大気圏内で水爆実験に成功し、カナダと国交樹立、11月にはイタリアとも国交樹立。71年9月には林彪毛沢東暗殺に失敗してソ連に亡命するが墜落死。10月に国連に加盟、同時に台湾[国民政府]が国連を脱退する。

72年2月にニクソンは中国を電撃訪問、田中首相は大慌てで日中国交回復。この時、戦前の行動について「迷惑をかけた」という謝罪の言葉が問題となった。中国では「迷惑」は軽い謝罪を意味していたからだが、日本側にはそんな意図はなかった。このことは交渉当事者の間では了解されていたが、現在でもこの言葉の取違えと翻訳ミスに尾ひれがついて両国で問題となることがある。しかし日中国交回復交渉のときの資料には戦争を直接経験した両国関係者の思いが伝わる感動的なエピソードが多い。

ベトナム戦争ではパリで和平協定が締結され、米軍は2段階方式でベトナムからの撤退することが決った。10月に第4次中東戦争が勃発し、日本では石油ショック。6大都市すべてに革新市長。8月にはウォーターゲート事件ニクソン大統領が辞任。10月には、文芸春秋誌が「田中金脈」を直撃し12月に田中内閣は総辞職した。ベトナム戦争を指導したマクナマラ国防長官は後に以下の点を反省している。
      1)共産主義の脅威を過大評価
      2)南ベトナム政府の無能と腐敗の理解してなかった
      3)北ベトナムナショナリズムに基づく信念を過小評価した
      4)東南アジアの歴史、文化、政治に対して無知であった
      5)政治的動機を持つ人間には軍事は限界があること
      6)軍事介入をする前に議会や国民の間で十分な議論をしなかった
      7)複雑な戦争を十分に説明せず国民を団結させなかった
      8)全ての国をアメリカ好みにする権利はないこと
      9)多国籍軍として行動するという原則を守らなかった
      10)国際社会に解決できない問題があることを認めなかった
      11)この戦争を分析議論する文官武官の組織がなかった
  1974年 南ベトナムと西沙海戦
  1979年 中越戦争
  1986年-1988年 ベトナムと国境紛争、南沙海戦
  (1989年 天安門事件)
  1995年-1996年 第三次台湾海峡危機
80年の北京は経済的に疲弊し、戦災の焼け跡のようにさびれていると訪問した多くの日本人は感じていた。ポスト毛沢東周恩来時代になると、日本に譲歩しすぎたのではないかという見方が徐々に中国に台頭した。80年代以降、訒小平の改革開放路線が定着する中で日本の経済が過大に評価され、中国が過小に評価されることに加え、教科書問題や歴史認識の問題が中国側の不満を助長した。冷戦体制の崩壊もあり、天安門事件の後、共産党の正当づけるための愛国主義教育がなされた。江沢民政権は「安定団結」の名のもとに台湾海峡の緊張を作り出し反日を基調とするナショナリズムを煽動し、治安対策として法輪功を弾圧した。このことが日中関係に今も暗い影を投げかけている。

中国に進出した日本企業が、文化摩擦もあって、人知主義の国で理不尽な取り扱いをうけることも多かったが、そのことが声高に唱えられることが日本では少なかった。一般の日本人が中国の強烈なナショナリズムの洗礼を目撃するのは、04年の中国の重慶で行われたアジアカップのサッカー中継だった。それまで無条件に尊敬されていた中国のイメージは大きく傷つき、普通の外国となった。

その後、中国の軍備の大拡張や領土問題が一般の人間の目に触れるようになった。外務省のチャイナスクールへの侵食、中国を訪問する日本の政治家に対する接待攻勢の凄さ、ウィグルやチベットの問題が報じられるようになった。