魚屋の時間と空間     

 北緯35度線が近くを通る相模湾に面する伊東は、かつて江戸の商品経済の発達とともにできた町だった。1588年浄土真宗のお坊さんが海を望む丘の上に庵を構えた。石山本願寺戦争が終りに差し掛かり、豊臣秀吉が小田原攻めをする少し前のことである。1604年には三浦按針が湾の奥まった所の平地を流れる川で洋式帆船を造った。江戸の町づくりのための石切り場として伊豆が注目を集めていた頃である。ちょうどその頃、紀州の雑賀から2人の漁師がやってきて、潮吹き岩の沖合にある手石島沖でイワシ漁をはじめた。これが関東イワシ漁の初めとされている。その後しばらくして、よい漁場を求めて銚子に進出したといわれている。40年ほどして泉州堺から江戸・真鶴を経由して商人がやってきた。納屋という屋号で産地の水産問屋を始めた。宝専寺という浄土真宗のお寺の本堂の直ぐ脇にお墓がある。お坊さんが来て、漁師さんが来て、商人が来るというという意味では、伊東はまさに正統派の新開地だ。
 浄土真宗が江戸の魚の流通に深くかかわっていたというと驚かれる。徳川家康に呼ばれて佃島で漁を始めたのが大阪の漁師さんで、彼らが幕府に献上しない余った魚を商ったのが、江戸日本橋魚市場の始めとされている。(大阪にも日本橋がありますね。)自然の成り行きで大阪系の人々が魚の流通に深くかかわったのである。彼らが信仰したのが住吉神社であり、浄土真宗だというのが私の着目したところだ。築地本願寺は、振袖火事の後建てられたが、その土地が佃島の人々によって造成されたことを宝専寺の和尚さんから習った。そして大阪から江戸に至る津々浦々の昔からの漁港には、どういうわけか浄土真宗のお寺があることはちょっと面白い研究材料だと思う。石山本願寺寺内町の商工業者の集積が大きかったことも関係しているだろう。この時代、海外との貿易に従事していた人はクリスチャンになり、国内貿易に従事した人の信仰を集めたのが浄土真宗ではないかという仮説をいずれは証明してみたい。
 江戸時代、江戸の地廻り経済圏の伊東で獲れた魚は、塩漬けにされたり、活魚のまま、八丁櫓を備えた早舟で運ばれ江戸で消費された。冷蔵庫がなく、氷がとてつもなく貴重だった時代の魚は、塩漬けにされるか、活魚でないとなかなか流通しなかった。我が国に機械式の製氷工場ができたのは明治以降の話だが、一般に冷蔵庫が普及し始めたのは昭和30年前後だ。日本の食文化と味覚は、この「冷蔵庫革命」を境として大きく変わった。もちろんその時代に高度経済成長がはじまり豊かになったことに加え、公害問題が深刻となり、食の洋風化が一層すすんだことも影響しているので「冷蔵庫革命」なんて言葉は聞いたことのない人がほとんだだろうが、そうした言葉が適当なほど、影響が大きかったと思われる。
 茶道の千利休泉州堺の納屋衆の出身というのは有名だが、その商売は魚屋(ととや)という屋号でしかも「塩魚」座を仕切っていた。室町時代・江戸時代には、魚屋さんは干物屋さんでもあった。これが基本的には昭和30年ころまでは一般的だった。鮭が獲れない伊豆では、「壺」と言ってソウダガツオの頭を落とし内臓を抜いたものを塩蔵した。年配の方の中には、この塩辛いソウダガツオを1キレ焼いてご飯を食べるのが今でも好きな人もいる。今でも網代の駅前の魚屋さんでは売っているはずだ。もっと年配の人は、昔は、その壺にしたソウダガツオの塩抜きして甘く煮つけて食べたという。いま都会でソウダを食べようと思ったら、お蕎麦屋さんでダシのおいしいお店に行き、ソウダブシでとった汁を味わうのが早いと思う。おいしいダシが取れるので、運よくソウダのナマリブシなどをいただくと実においしい。都会でも、たまにカツオの代わりに安価な魚として鮮魚のソウダが売られることがあるが、時間とともに身が緩みやすいので刺身材料としては評価されないが、大きくて脂の載った新鮮なものはおいしい魚だ。
 魚の塩漬けが重要だった昭和30年以前の世界において、ボラはマグロより貴重だった。若い人には信じられないだろう。江戸時代に海が荒れている時に食べれる魚は、塩漬けか佃煮、そして刺身と言えば、コイとボラのアライ、活造りだったと考えられるからだ。タイもあったが、これは別の機会に触れよう。今とは違って北海道や九州から昨日獲れた魚が届くわけもなく天気が良ければ、鎌倉沖で獲れた初ガツオを競って高値で買った時代のことだ。マグロは赤身の(醤油)漬けが主流でトロが食べられるようになったのは冷蔵庫革命以降の話である。
 その頃のマグロはお武家さんがあまり食べなかったので庶民の味だった。コイやボラは活魚としては、エアレーション装置なしに池でも飼える魚だ。愛知三重の県境を流れる長良川のほとりの弥冨では今でもボラが淡水養殖の魚といて飼われている。墨田川の川べりには日本橋の水産問屋の活魚池が並んでいたようだ。松尾芭蕉がその俳句のスタイルを決めたといわれる句「古池や蛙飛び込む・・・」の句は、日本橋の水産問屋「鯉屋」の池であり、中にはコイとボラが泳いでいたはずだ。コイの旬は夏、ボラの旬は冬である。ボラは今でこそ川の河口にいる汚い魚と考えられているが、名前が変わる出世魚である。今でもお伊勢さんの伊勢市では冠婚葬祭にボラの活魚は欠かせないとされている。イナセという言葉は、日本橋魚市場で働く若者の髷がボラの稚魚のイナの背中の紋様に似ていることから出た言葉なのだ。鎌倉の大仏の近くをイナセ川が流れている。今はほとんど暗渠になっているどぶ川だが、歌舞伎の白波五人男に出てくる。歌舞伎教室では鎌倉といったら江戸、イナセ川といったら大川と頭の中で置き換えろと習ったことがある。同じ河口領域に生息するスズキは梅雨時の旬の時期は今もって超高級魚である。スズキが子魚を餌とするのに対し、沿岸で獲れるボラは泥とともにその中のプランクトンを食べるため、公害がひどくなってからは油臭い魚として急速に人気が亡くなったしまったためだ。冬にとれる海洋性のボラは人気はイマイチだが今でも美味だ。数年前、鯉ヘルペスで養殖の鯉がダメになってから少し売れ出した。アライや鯉コクならぬボラコクなどにして食べると美味しい。ボラの産地である伊東でも、ボラは(伊豆高原の海岸部にある漁業集落の)富戸の人しか食べないという。おそらく江戸時代は非常に経済価値が高かったために地元の人が食べる以外はすべて江戸に送っていたからである。瀬戸内海でもボラ漁を始めた村は豊かになったと江戸時代の歴史の本にあるほどである。
 目を世界に転じれば、ボラはイギリスでも、フランスでも食べられている。フランスのコルドンブルー料理学校のビデオにはボラの下し方が載っているほどなのである。モロッコでは秋口になると原住民が砂浜の波打ち際を棒でピチャピチャと叩くと沖でイルカが飛び跳ねる。それに驚いたボラの大群が岸に押し寄せるといった漁が今でも行われているようだ。ボラで今でも価値のあるのは秋に黄色い卵を抱えたメスである。日本ではオスの100-200倍位の値がつく。カラスミの価値から逆算するとそんな値段になってしまう。カラスミの原産地もよくよく考えれば地中海沿岸に行きつく。塩田がフェニキアで始まったとされるので、カラスミは地中海原産だと考えることもできるし、昔は食料を保存するには塩漬乾燥しかなかったので当たり前だと考えることもできる。地中海沿岸一般にそうした食べ方があるようだ。イタリアではボッタルガといって、ボラ、サワラ、マグロの魚卵が塩漬けにされる。ボラが産卵にやってくる地域にはマグロもサワラも産卵にやってくるし、イルカも泳いでいるところなのだ。
 だから緯度35度には意味がある。まぐろの美味しいのは北緯40-45度だとされているが、どういうわけか、マグロが蓄養殖されるのは34-36度なのだ。この蓄養はもともと産卵後痩せたマグロが捕獲される地域で始まったため、そうしたマグロを太らせればと考えた日本人が技術と需要を伝えた。イタリアの東、海を挟んだクロアチアがどうも最初らしい。マグロの蓄養業者にはクロアチア人のネットワークでできている。スペインのカルタヘナをはじめとして地中海蓄養マグロは34-36度の地域で行われている。キプロス島には北緯35度線が通っている。伊東市の宇佐美、清水の三保もそうである。今の伊東にはマグロ漁をする船はないが、その昔、日露漁業のマグロ船団は川奈の漁師さん達が基礎を築いたと聞いた。南緯35度にあるはオーストリアのポートリンカーン。オーストラリア蓄養マグロの基地があり、最近ではボラの漁獲と魚卵の出荷もやっているはずだ。カラスミでも、値段が安いものはオーストラリア産、ブラジル産のものは増えているので原産地をみると興味深い。南緯35度近辺で漁獲されているのだろう。季節が日本と逆になるので専門業者にとっては都合が良い。
 一般に、どんな魚が獲れるかは、緯度と地形で決まると考えて良いのではないか。小学生も習う単純で奥深い真実に何十年もたって気がついた。地球が自転しているので緯度によって海流が流れる方向が決まる。緯度が決まると水温がだいたい決まる。砂地が好きか、岩場が好きかは、個人の好みであり、魚の好みだと思う。そう考えてみるといろいろなことに説明がつく。ブリでは富山の氷見が有名だが、旧正月となれば、何といっても伊豆のブリである。北の海で栄養つけたブリが南に下ってくる一休みするのが能登半島であり、伊豆半島だ。そうした目で見ると、氷見は伊豆半島で言えば伊東に当たる。伊東の魚がおいしいわけだ。相模湾は南の魚と北の魚の出会うところ。魚屋さんの店頭には、昔ながらの時間と世界に広がる空間がある。