伊豆と沖縄とポリネシア

1.台風とウナギの回遊
 統計を調べたわけではないが、昨年はことのほか台風が多かったのではないだろうか。台風の発生から日本列島への到来の進路が報じられるのを見ていたら、台風とウナギの進路はほぼ同じであることに気がついた。ニホンウナギは、グアムの西の西マリアナ海域で、新月の晩に一斉に産卵するとわかったのは、つい数年前のことだった。
 そこで受精後数日でふ化してレプケトファルスという葉っぱの形をした仔魚となり、まず北赤道海流で西に運ばれ、フィリピンの東で黒潮に乗り換えて、4か月から6か月かけて日本沿岸にたどり着き、そこでシラスウナギに変態するのは、冬から早春にかけてのことだ。この透明なシラスウナギが河口に入ると、黒い色素が発達してクロコと呼ばれ、川の上流に移動するにつれて黄ウナギとなり、川で5-10年生活して、秋に黒く銀色の銀ウナギとなり海に下る。
 そこからが少しはっきりしないのだが、銀ウナギは親となるために、伊豆諸島・小笠原諸島マリアナ諸島、つまり太平洋プレートがフィリピン海プレートの下へ潜る沈み込み帯に伴う島弧に沿って概ね3000キロの旅をして産卵場に至り、子孫を残して生命を全うする。9月にナショナルジオグラフィックがウナギの完全養殖の現状を報告していた。技術的には可能でも、未だ大幅なコストダウンが必要な状態にあるようだ。
2.ラピタ人の移動
 太平洋に浮かぶ島々に住むポリネシア人のルーツは台湾にいたモンゴロイド系のラピタ人だとされている。その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。別のグループは黒潮対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、三重県や愛知県、静岡県和歌山県などに彼らの子孫が多いと言う。南下したグループは紀元前2000年頃にインドネシアスラウェシ島に到達した。ラピタ人はここで進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー、紀元前950年頃にはサモアやトンガ、紀元1世紀頃にはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島、300年頃にイースター島、400年頃にハワイ、1000年頃にクック諸島ニュージーランドに達したという。
 ラピタの人々は、日本人のルーツの一つといっても良いのではないかという考え方がある。京大人類学の片山一道先生の記事を見ると、体の前面に入れ墨をした人の写真が出てくる。日本書紀にも、神武天皇畿内に入った時、天皇が連れていた家来が黥面をしていた事に畿内の女性が驚くシーンがあった。倭人伝は3世紀に倭人は身分の大小に関わらず入墨をしていて、九州には8世紀位まで黥面文身の風俗は残っていたと伝えられている。湘南ではサファーの人がよく入れ墨をしているが、海人族の伝統かもしれない。
3.日本への到来 伊豆と沖縄
 台湾がルーツならば与那国島は隣だし石垣島宮古島沖縄本島はご近所だ。コメの伝来にしても、揚子江下流流域からだとする説に納得できる理由が多い。話を伊豆半島に絞っても、三嶋大社は三宅島に創建されて、伊豆半島の先端、白浜の「火達山(ひたちやま)」に鎮座し、三島市遷座したと伝えられている事実とも符合する。
 白浜の神社の場所の名前からして、昨年の爆発した小笠原の西ノ島新島のような造山運動と関連した神様なのかもしれない。愛媛の大三島大山祇神社は静岡の三嶋大社と共に三島神社の総社とされるが、海と山の神様だという。
 もう一つ関連すると思われるのは、海岸地域の「えびす」様信仰である。人々の前にときたま現れる外来物に対する信仰であり、海の向こうからやってくる海神だとされている。イルカやクジラをいう場合もある。それらはカツオとともに姿を現し、漂着したものは村の副収入となり、飢饉を救う食料となった。
 「ウナギの稚魚や台風だけでなく、ラピタという南方系の海人も、海流を使って日本にやってきた」と考えると、伊豆の多くの伝承や伝説、神社・地名の由来、神話の解釈が大きく進展するのである。
 例えば、伊東の秋祭りである。伊東をはじめとする伊豆の東海岸の祭りでは「鹿島踊り」が奉納される。これは海上から弥勒船がやってくるという民間信仰を基盤にしている。それは沖縄の八重山地方のニライカナイ信仰と類似している。この2つがどういう関係にあるかという問題は、民俗学柳田国男先生(1975-1962年)が「海上の道」(1961年)で、日本という国を考えるのにどうしても明らかにしたいと書き残した問題の一つだった。
 伊豆と沖縄といえば、もう一つ有名な物語がある。椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)である。文化4-8年(1807-1811年)に曲亭馬琴の文章と葛飾北斎の画で出版された読本だ。正式にはその前に鎮西八郎為朝外伝との添え書きがつく波乱万丈の物語である。源為朝(1139−1170年?)は、弓の名手で鎮西八郎と称して九州で暴れ、保元の乱で父の為義とともに崇徳上皇方で奮戦して敗れ伊豆大島へ流された。そこで大島の代官の娘を妻とし、伊豆諸島の諸豪族を切り従えて自立の動きを見せたため、1170年に大島を所領とした工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣を得て、伊東氏・北条氏・宇佐美氏ら500余騎、20艘で攻めよせ、自害に追い込んだといわれている。この伊東氏というのは伊東祐親に代表される伊東の水軍だった。たしか宇佐美にも、堂ヶ島にも為朝に関連する伝承が残っていたと記憶している。
 当時の工藤茂光は伊豆を代表する牧草地だった牧之郷で良馬を多数保有していた伊豆半島最大の勢力だった。平岩弓枝氏は、馬琴の物語の面白さは荒唐無稽に徹したところにあるという。幸田露伴の「為朝」によれば、曲亭馬琴は下田に滞在していたことがあり、琉球王国の正史「中山世鑑」(1650年)や「おもろさうし」(1531-1623年)などで為朝の子が琉球王家の始祖舜天になったとされる物語を知ったという。しかし、この物語は全くの荒唐無稽なのだろうか。日本のウナギがグアム西方の海山で産卵するために旅をし、新しく誕生したウナギの子どもは一旦フィリピンに向い、そこから北上して台湾沖縄を経て日本に戻ってくる。源為朝には、名護市の北側にある国頭郡今帰仁(なきじん)の運天港周辺に東郷平八郎閣下揮毫による上陸記念の石碑が建てられている。
 ここで思い出されるのは伊豆の天城山は昔、狩野山といったことだ。応神天皇5年に伊豆の国が命じられて作った船は枯野、あるいは軽野という。ともに、カラノ、カノとも読むようだ。長さは10丈、試しに海に浮かべたら、軽く浮かび、その速さといったら走るがごとくだった。そこでその船を名付けて、「枯野」と言った。修善寺駅の南西4Kmほどの伊豆市松ケ瀬には軽野神社がある。八丈島にはアウトリガー式の丸木舟があり、それをカンノと読むという。サンスクリットでは「ノー」が船を意味するという。カヌーとカノーは語源は同じ名のではないだろうか。東海大学海洋学部にいらした先生は、古代ポリネシア語で読むべしと主張されるだろう。また稿を改めて報告したい。クスの丸木舟は杉の丸木舟よりはるかに重く堅く、長年の使用にに耐える。クスノキを市区町村の木とする街はかなり多い。大阪15ヶ所を筆頭に愛知・福岡と続き、歴史的にも海運水運に縁が深い地域である。伊豆にはクスの大木が多くそれにちなむ地名と神社がある。タブの木もクスノキの仲間だそうだ。宇久須、大久須。熊野の那智大社の祭神は熊野夫須美命であり、これもクスノキをご神体とした熊野の神だという。
 古代に、なぜわざわざ大和から遠い伊豆で船を作らせたのか。それは神津島の黒曜石を運んでいた縄文人の子孫が、伊豆のあちこちに住んでいたからだという説がある。高い造船技術を持っていたり、高い鉱物採集技術(探鉱、採掘=石工)を持っていたと考えられている。この地で船を作った人は、自分達が得意とした、太平洋の黒潮をすばやく渡りきることのできる構造の船を作った。
4.鬼と天狗
 古今著聞集の巻第十七に「伊豆国奧島に鬼の船着く事」という興味深い記録がある。承安元年七月八日(1171)、伊豆国の奥島の浜に、船が一艘着いた。島の人たちが暴風に吹き寄せられたかと思って近よって見ると、陸より六間ほど離れて船を泊めたのは鬼たちだった。上陸した鬼たちに粟酒など出すと馬の如く飲み食いした。鬼が島人の持つ弓矢をよこせというのを断ると、鬼は鬨の声をあげて弓を持つ人を打ち殺し、怪我をした九人のうち五人も死んでしまった。島人が神物の弓矢を持ち出すと、鬼たちは船に戻り、風に向って走り去った。後、鬼の落としていった帯を国司に奉った。この帯は、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に納められているという。
 鬼の姿は「其かたち身は八九尺ばかりにて、髪は夜叉のごとし。身の色赤黒にて、眼まろくして猿の目のごとし。皆はだか也。身に毛おひず、蒲(水草)をくみて腰にまきたり。身にはやうやうの物がたをゑり入たり。まはりにふくりんをかけたり。各六七尺ばかりなる杖をぞもちたりける。」というが、ラグビーフアンの自分とっては、姿形の描写から思い浮かぶのはハカで雄叫びを上げるニュージーランドマオリの選手の姿である。「奥島」というのは伊豆大島と考えてよいのではないか。更に言えば、この時の神仏の弓矢が鎮西八郎為朝のものなのか、或いは為朝本人を指すとみると、為朝が琉球まで辿りつくのは、あながち荒唐無稽とは言い難くなる。
 鬼の姿形でもう一つ思いつくものがある。それは天狗である。伊豆には、思いのほか、天狗伝説が多い。伊東の仏現寺には「天狗の詫び状」がある。柏峠に毎夜天狗が出没して悪さをし、旅人を悩ましていた。そこで、仏現寺の和尚さんが峠に赴き、7日間祈祷し、満願の日に峠の巨木を伐らせた所、空から巻物が落ちてきたという物語である。
 伊豆半島西端の大瀬崎の大瀬神社は引手力命神社(ひきてちからのみことじんじゃ)である。大室山の北側の十足にはそれと対をなす引手力男神社(ひきてちからおじんじゃ)がある。委細はわからないが、大瀬神社の社殿の彫刻には、素晴らしい天狗の彫り物が、一面に彫り込まれている。引手と言えば、弓矢の引手にも通じることから、多くの武将が弓矢などを奉納しているという。鬼が欲しがったのも弓矢だった。
 松崎町の天狗碁盤石は、旧・中川村大澤里の禰宜之畑の北にあるという。上面が平らで黒白の斑点があって、盤上に碁石を並べたような石のことを言う。この辺に天狗の巣があって、天狗が碁を打った跡と言われている。そして天城山には兄弟天狗が棲んでいたという伝説がある。万太郎山には万太郎天狗が、万次郎山には万次郎天狗が、万三郎山には万三郎天狗が棲んでいた。彼らは時々山から出かけては八丁池で水浴びしていた。 万次郎山のほとりに天狗の土俵場と呼ばれるところがあるが、落葉がまるく踏みつけられて、兄弟が相撲をとっていた土俵の跡だという。
5.日本人のルーツ
 太平洋に拡がったラピタの人々はポリネシア人の祖先なので、古代ポリネシア人とも呼ばれている。その人々が台湾に来る前に大陸から来たとすれば、雲南とも揚子江下流とも言われるコメの遺伝子から見た日本人の渡来ルートとも符合する。ロシアの本を読むと、第二次世界大戦以前から、日本人はバイカル湖周辺のブリヤート人とよく姿形が似ていて同族ではないかと言われていた。最近では細胞内のミトコンドリアのDNAを調べてそれが確かめられて「日本人のルーツは中央アジアバイカル湖周辺)34% 東中国(上海・蘇州・南京周辺)15% 南中国 15% 東南アジア(北ベトナムラオス周辺)5% ヒマラヤ・チベット周辺 3.4% 東北アジア朝鮮半島経由)3.2% 中国起源渡来人 7%」となっているようだ。ご先祖様の範囲があまりにも広くて実感がわかないが、この説が広まってから、文化は全て朝鮮半島から伝来したという説をとる人はだいぶ少なくなった。ただ古代において沖縄には仏教が伝来してないので、仏教は朝鮮半島ルートで伝来したことは事実と考えられている。
 日本人の祖先が中央アジアまで至れば、 キルギスウズベキスタンの「肉の好きな人は残り、魚の好きな人は日本にいった」という伝承も事実と思えてくる。中央アジアを西に突き抜けて南下すればイランに行き当たる。奈良の正倉院の品物がシルクロードを伝わって日本に来るのと同様に、そのはるか以前に或いはその後も、人が来て文化に影響を与えたとしても不思議ではない。そしてイランと交流があったことまで辿りつくと、諏訪大社の上社の御頭祭(おんとうさい)がユダヤ教の「過越しの祭り」、そしてそれを起源とするキリスト教の「イースター」と似ていても不思議ではない。世界は学校の歴史で習う以上に、昔から繋がっているのかもしれない。
6.古代ポリネシア語で読み解く日本の固有名詞
 為朝が琉球にたどり着いたように、古代ポリネシア人が海流に乗って船を操り日本列島にやってきたことが事実とするならば、日本の神話や言葉にも何らかの痕跡影響を与えているはずだと考え、文献を探していたら、東京商船大学名誉教授で東海大学海洋学部の教授だった茂在寅男(もざいとらお)先生の所説に出会った。(「古代日本の航海術」(1979年6月小学館)、「日本語大漂流」(1981年7月光文社))先生の考え方は、伊豆の伝説伝承を説明し、柳田国男先生の海上の道の疑問を解くことが可能な仮説の一つを提示しているのではないだろうか。先生は航海学の専門家ではあるが、古代ポリネシア語から日本語の語彙の語源の一つになったという「大きな海図」を提示されている。古代ポリネシア語自体についてはハワイ語辞典を編纂されたハワイ大学のサミュエル・エルバート名誉教授の説を参照している。
 古代ポリネシア語は、紀元前200-600年頃に成立していたと推定され、そこからトンガ語とサモア語がわかれ、更にマルケサス語(タヒチの北東1500キロにあるヒバオア島などからなる仏領ポリネシアの諸島の言葉)、ハワイ語と分岐していく言語である。ハワイ語の成立が800-1000年頃とされているので、太平洋からハワイまでを1000年以上かけて言葉が拡がっていったこととなる。台湾と与那国島、南西諸島の距離を考えれば、その伝播の早い段階からラプタの人々とともに文化や古代ポリネシア語が断続的に日本に到来したと考えるのが自然だろう。 平凡社「太陽」の初代編集長だった民俗学者谷川健一先生は、退職後、沖縄や宮古といった南西諸島をはじめ全国各地でフィールドワークを行い、日本の地名や、神社の祭神、旧家の伝承を総合することによって古事記日本書紀などの伝説や物語の解釈や古代学に新局面を拓かれた。茂在寅男先生も神々の名前と地名に着目された。言語学では「固有名詞学」というらしい。神話や神々の名前そして地名の意味が明らかになる。幾つかの事例を茂在先生の本から転記要約してしておく。(日本語と南方語の関係については、村山七郎、大野晋ほかの諸先生の研究があるようだ。)

1)神話と神々
「海幸・山幸物語」同型の神話が太平洋に広く分布。釣針の喪失と探索、兄弟の争い、狩猟と漁業、異郷訪問、農業の起源、妻の出産と覗き見。
海幸彦ホテリノミコト→HO'OTELE(舵とり、水主、航海する→海彦)
山幸彦ホオリノミコト→HO'OLI(喜びを与える、幸福にさせる→幸彦)
塩椎神シオツチノ神→SIO・TUTU-I(強い風で吹き飛ばす・悩みや災い→厄払いの神)
豊玉姫トヨタマ姫→TOI-O-TAMA(激しい陣痛・of・子供→陣痛姫)
玉依姫タマヨリ姫→TAMA-I-OLI(子ども・of・喜びを与える→子育て姫)

「国産みの神話」比較神話学の論点だが、陸地が夫婦の交わりから産まれる神話は日本とポリネシアの特徴
伊邪那岐イザナギ→イ(定冠詞)・サナ(聖なる)・キ(男)→聖なる祖始神
伊邪那美イザナミ→イ(定冠詞)・サナ(聖なる)・ミ(女)→聖なる女神

「おもろそうし」は、5世紀前後から謳われている沖縄の古謡を1532年、1613年、1623年の3回に分けて編纂したもの。もともとは巫女や神官によって謡われたが、時代が下り男子によって王宮で歌われた。もし「おもろ」が「御・メレ」の変化形だとしたら、それは「歌謡、聖なる歌」を意味する。
ニライカナイ→NIALA'I-KANUIというハワイ語だとしたら「静かな・平和な・豊かな場所」を意味する。

2)地名
ワタ=ワカ(船、船乗り、海人族)
綿津見宮・海神宮→海人の宮
度会 ワタ・ライ(歓迎する)→船乗りを歓迎する国、「百船の度会」ワタ・ラウ(百、大勢)→大勢の船乗りの集まる国
*この他に和歌山、和歌浦、和田なども之に当るか

難波、浪花 ナニ(美しい)・ワ(水路・河口)→美しい河口
三原山 ミハ(波に漂う、空中に浮かび上がる)・ラ(太陽)→空中に浮かび上がるように太陽が昇る山
駿河スルガ(天国、パラダイス)
陸奥ムツ(地の果て)

7.終わりに
 12世紀の前半の工藤家と伊東家の関係を調べるうちに、椿説弓張月のモデルとなった為朝を征伐するために、工藤・伊東連合軍が大島を攻めたことを知った。はたして為朝が最後に沖縄に渡ったのかという荒唐無稽な疑問を調べるうちに、ウナギの一生と柳田国男先生の「海上の道」のことを思い出した。海流に着目すると、天狗や鬼の話が気になりだした。何か先行文献はないかと調べていたら、茂在寅男先生の航海学に裏打ちされた比較神話学と古代ポリネシア語による固有名詞学に行きついた。どれをとっても2-3冊本を読んだくらいで到底全貌はつかめないが、古代・中世の人々の行動半径は我々の想像以上に広いことだけはたしかなようだ。