「鳥啼き魚の目は涙」から

コンビニで売っている塩サバが実に美味しい。身が厚く背中の縞模様が鮮やかなノルウェイ産だ。伊豆では冬でもこんな魚は獲れない。今年はジェット気流が大きく蛇行しているという。そうだとすれば気流に引っ張られる黒潮も大きく蛇行している。水温と海流によって魚も毎年同じようには獲れない。それ以上に海が荒れれば何日も漁ができない。

1635年の武家諸法度によって参勤交代制度がかたまり江戸は政治の中心であるとともに、男性が多い消費都市となった。江戸には一日千両の金が動く場所が3つあった。朝千両は「魚河岸」、昼千両は「歌舞伎」、そして夜千両が「吉原の遊郭」という経済ができて行く。御馳走は魚料理だった。冷蔵庫もトラックもない時代に、春には初鰹、秋にはサンマを食べたいのが落語に出てくる江戸っ子だった。

その時の魚の流通はどうだったのか、その歴史を考えるヒントになったのは俳句だった。山口素堂の「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」という句が有名だが、ほぼ同世代の芭蕉は「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」と詠んだ。初鰹は鎌倉のものだった。伊豆の魚も八丁櫓の早舟で鎌倉の材木座海岸に送られ、そこから陸路、金沢八景へ、そしてそこから早舟で品川、日本橋へと運ばれた。時代が経つと油壷、三崎を船で回ったという。おそらく目黒のサンマも、伊豆の人たちが今も大好きなカチカチの塩サンマだったと思う。脂ののったサンマは日持ちがしないからだ。マグロは下品だが「赤身の漬け」ならという時代である。

それでも、伊豆の東海岸や、相模湾、千葉の地回り経済圏だけでは、とても魚が足りなかった。何より天気が悪ければどうしようもなかった。その問題を解決したのは2つの事業革新だった。

一つは川の近くの池に魚を蓄養することだった。芭蕉は「おくの細道」への旅に、杉山杉風という弟子の深川の別所から出発する。杉風は摂津出身の「鯉屋」という魚問屋だ。鯉ならば池で蓄養できる。そして魚屋の常識として、旬が鯉の反対の冬となるボラもそこで蓄養していたと思われる。海が荒れた日はそこから魚が出荷されたはずだ。冷蔵庫が普及するまでボラはかなりの高級魚であり、淡水でも生き強い魚だった。春になるとボラは眼の上に脂肪の膜ができて泣いているように見える。そして芭蕉は元禄2年3月27日(1689年5月16日)に千住で見送りの人たちとの別れを惜しみ、「行く春や鳥啼き魚の目は涙」と詠んだ。それは空想ではなくてボラの観察に基づいているというのが自分の見方だ。

 もう一つの事業革新は、鯛の活魚ネットワークの構築だ。これは奈良の大和屋助五郎という人が、住込みから独立して始めた仕事だ。「海の生簀」で鯛の蓄養し、船の船倉に穴をあけて海水を循環させながら遠くから鯛を江戸まで持ってくる仕組みを作ったのだった。最初に契約したのが1628年の駿河の江の浦(沼津)だという。狩野川放水路のあたりだ。そこから、江戸に向けて、三河尾張、伊勢、伊予、讃岐という鯛の活魚ネットワークが江戸時代につくられる。その後、大和屋の一族は、摂津系と対抗して江戸の魚河岸を仕切る大店となった。名前は忘れたが「江戸時代の三島の名物は鯛」と書かれた本があった。偶然かもしれないが、長泉のクレマチスの丘の日本料理屋は鯛で有名な鳴門の青柳の出店だった。


*「おくの細道」より冒頭抜粋

 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、・・・住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も住みかはる代ぞ雛の家

表八句を庵の柱にかけおく。弥生も末の七日、・・・睦まじきかぎりは宵よりつどひて、舟にのりて送る。千住といふ所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻の巷に離別の涙をそゝぐ。

行く春や鳥啼き魚の目は涙

これを矢立の初めとして、行く道なほ進まず。人々は途中に立ち並びて、後影の見ゆるまではと見送るなるべし。