地方制度革命の地平 道州制の前に考えること  

 サッカー・アジア杯で日本が勝ち日本中が明るくなった。九州では霧島連山の噴火があり避難命令。300年前の噴火と似ているようだ。北国では連日の大雪で一人暮らしの老人たちの雪下ろしが報じられいる。2-3年前に財政破綻した夕張市の65歳以上人口は全市民の43%をしめていた。東京で作られるテレビ番組や新聞では、ほとんど報じられることはないが、こうした限界集落では、ホームドラマのような家族構成の家は少ない。3人家族でも3世代同居だったりする。若い人が歩いていると、ついそちらに目が行ってしまう。そうした光景は、あと20年たつと日本の至る所で見られるのかもしれない。東京内部にも高齢者集落がないわけではないけれど、全国の若者を集める大都市東京において、役所や大企業に所属していると見えにくい世界だろう。2月の名古屋を皮切りに統一地方選挙が始まる。大阪、東京も首長選挙がある。これから行われる選挙が、地方制度革命の端緒となることを願っている。その最終的な姿はまだ示されていない。どうも中央の大政党は明確な地方政策を持っていないというのが自分の観察だ。医療も、介護も、子育ても、教育も突き詰めれば地方の問題だが地方の自由にはならない。
 「地方主権」という言葉は、恒松征治先生が長らく会長をやっておられた地方自治経営学会の論文に初めて登場した。もともと地方分権をもっと進めようという以上の意味はなかった。しかし、国家の基本である外交、安全保障政策がブレる政権が生まれたために、地方主権という言葉で、外国人地方参政権と合わせて「主権」や「国家分割」を議論する人が出てきた。周辺の国々の行動に領土侵略的な疑念が持たれ始めたことも反映している。「道州制」という言葉も最近よく登場するが、その制度が何を意味するのか一般にはあまり議論されていない。道州制という言葉が登場したのは、1955年だとされているが、本格的な行政改革のテーマとして論じられるようになったのは、ここ10年だと思う。中央政府、県庁、基礎的自治体という3階層の統治組織の在りようを考えたとき、これを抜本的に組み立て直すことが適切ではないのかというのが、道州制の議論の本質だ。今の県庁の業務職掌をそのままにして幾つか束ねて道州とするようなものではない。
 全国的に見れば、県より大きな市が幾つもある。政令指定都市を抱える府県では、府県の役割が曖昧化し、政令指定都市内部では二重行政の弊害が生じ、同時に基礎的行政と住民との心理的な距離が遠くなるという問題が生じた。一方で、それ以外の地域では、府県庁自体が政令指定都市内部にあるため、物理的な遠隔地で地域の意思決定が行われる非効率が生じてきた。人口の都市部への集中は、財政の面からみれば税源の集中でもあり、交付税補助金といった形での何らかの財政調整制度が必要となる。眼を大都市の市街地の広がりに向けると、市街地は府県の境を越えて連結し、府県単独や政令指定都市単独では有効な都市政策がとれなくなる地域も生じている。
 そして、これから日本の人口全体が高齢化するとともに減少するといった大きな変化の中で、柔軟な行政機構に作り直すことが必要になる。しかし検討すべき論点は数多く、利害が複雑に絡まりあっている。仮に、多くの困難を乗り越えて、制度として道州議会、道州知事の創設ができたとしても、道州自体が、日本にとって経験のない思考の産物にすぎないため、その地域の住民、政治家、公務員の意識が道州制に適応し、改革の成果を手にするまでに多大の時間と手間がかかる。現在の都道府県においても、都道府県全体の行政全般に目配りできている政治家はかなり少ないうえに、その中の何人が都道府県を超えた地域の将来を見通したビジョンを持ち、変革を推進しているだろうか。道州制の導入に当たっては国、県、市町村の各階層における行政全般をいかに仕分けして簡素に刷新すべきかという理念が必要であり、そうした道州制を育てる議会の議員自体をどう選出し育てるのか作戦も必要であろう。道州制は、大胆な行政改革と柔軟な統治構造と堅牢な都市計画に基づいた街づくり・地域づくりをするための旗印だと考えることが本筋だ。
 都道府県別人口推移(単位:万人、2010年→2035年
北海道 551→441
青森  138→105   岩手  134→104   宮城  233→198
秋田  109→78    山形  117→92    福島  203→164
茨城  293→245   栃木  200→174   群馬  200→169
埼玉  708→625   千葉  610→549   東京  1290→1269 
神奈川 896→852   山梨  87→73    静岡  377→324
新潟  236→187   富山  109→88    長野  215→177
石川  115→96    福井  80→67    岐阜  208→176      
愛知  736→699   三重  185→160   滋賀  140→134
京都  262→227   大阪  873→737   兵庫  556→479
奈良  138→110   和歌山  99→73   
鳥取  59→49    島根  71→55    岡山  194→167   
広島  284→239   山口  144→110   徳島  78→62    
香川  99→80    愛媛  142→112   高知  77→59    
福岡  503→444   佐賀  85→71    長崎  143→111
熊本  180→151   大分  118→97    宮崎  112→91
鹿児島 170→138   沖縄  139→142         
 数年前に地方で産婦人科や小児科のお医者様が不足するという問題が生じた。制度改革によって医者になるための研修期間が2年延びて、その間、新しい先生が市場に供給されなかったからだ。その混乱は計画上の失敗と考えてもよいと思う。ベテランの看護婦さんがどんどんやめていき、看護婦さんはいつでも人で不足だという。そのことが残っている看護婦さんの労働環境を一層過酷にしているという。これはおかしなことだ。厚生省は全国を348の2次救急地域に分け、心臓外科や脳外科のなどの手術ができる3次救急病院を220ほどおいているが、峠のクネクネ道を救急車で運ばれる住民はトンネルや道路がほしくなる。数年前に東北6県が共同で小さな新聞広告を出していた。まだ解消したとは思えない。コンクリートは本当に時代遅れなのか。子ども手当よりも保育所が必要だ。そうした身の回りの環境からみると、お金の計算だけで、政府の社会保障改革を信頼しろというのは無理がある。地方独自で計画機能を強化したいが、人材も経験も権限もない。正直に言えば、ないと信じ込まされているといったほうが適切かもしれない。
 さらに言えば、本当に尖閣諸島や沖縄は、防衛費を据え置いてあるいは削減して守れるのだろうか。離島奪還訓練をしているとことが報じられたが、「取られる前にしっかり守れ」というのが国民の感情ではないのだろうか。税、社会保障一体となった改革よりも、不得意ではあっても、外交・安全保障と経済の活性化を論じてほしい。消費税を最終的に15%から20%に上げたいというお金の計算はわかる。20年前に計算しても15%だった。しかし経済はこの20年間成長していない。そのことを言われると、自民党の責任だという言い返す民主党の政治家が多い。しかしそれはかなり幼稚な答えだ。幼稚園の砂場で勉強が足りなかった変な人たちが多い。国民が気にしているのは次の一手であり、増税について一緒に考えましょうという内閣ではない。日本にはチャンスがある。モノの値段が下がり、ヒトが余り、土地が空いている。高齢な労働者は増加し、高齢者向けの市場は急拡大している。日本の高齢者は世界一健康で、勤労意欲も高い。さらに働きたくて結婚したくてウズウズしている若者がいて、日本で暮らしたいという外国人も増えている。
 どこから改革を始めるのか。国会であらゆる行政地域計画の統計、調整、広報機能を2次救急圏をベースにした計画単位に集約するという法律を作るところから始めるのが良いのではないか。その計画単位よりも小さければ、市町村は話し合いを始める。大きければ分割して複数の行政計画をつくるだろう。都道府県の仕事も、その計画単位に落とし込める仕事は仕分けてしまう。国の仕事も同様だ。内閣の調整機能、外交機能、防衛機能、産業振興機能を残して、それ以外の機能は、基礎的計画単位に落とし込む。残りが県の単位に落とし込めるもの、いくつかの県をまとめた単位に落とし込めるものに仕分けされる。暫らくそうした基礎的な計画単位ごとの議論を続け、道州をまとめきれるビジョンを持ったリーダーが現れた地域から五月雨的に道州制がスタートすることが現実的だと思えてならない。大阪や愛知からそうした要求を突き付けるリーダーが出現するかもしれないという希望が地平線に見えてきた。